So-net無料ブログ作成

田植えの季節 [ファンタジー]

5時を告げるメロディが、村に流れた。
「峠の我が家」は優しく心に響く。
秀じいさんは、思わず歌詞を口ずさみながら腰を叩いた。
田んぼに水を張り、あとは苗を植えるだけだ。
昔は家族そろって田植えをしたものだが、息子家族は帰っても来ない。
秋に新米をもらいに来るときだけ、嫁は愛想がいい。

「さてと、帰るべ」
ふり返ると、水面に緑の山がくっきり映っている。
いい季節だ。

秀じいさんは家に帰ると、簡単な夕飯を作る。
女房が生きていた頃は、テーブルにたくさんのおかずが並んだものだが、今は魚の干物とお新香と味噌汁だけだ。
ひとりの食事は、そんなものだ。
だけどご飯だけは、こだわって炊く。鉄の釜で、ふっくらと炊く。

秀じいさんは炊きたてのホカホカご飯を、仏壇に供えて手を合わせた。
「さあ、いっしょに食うべ」
2年前に女房を亡くしてから、ずっとこんな毎日だ。

翌朝、秀じいさんは身支度を整えて田んぼに向かった。
すると朝の少し冷えた風に乗って、田植え歌が聞こえてきた。
「誰だべ? おれの田んぼにいるのは」
それは姉さんかぶりをした女だった。振り向くと、その女は死んだ女房だった。
「秀さん、おそいよぉ」
「なんだ、おまえ。どうしてここにいるだ?」
「田植えを手伝いにきたのよぉ。毎晩美味しいご飯を供えてもらってさ、手伝いもしないんじゃ悪いべ」
「そうか。そりゃあ助かるな」

秀じいさんと女房は、並んで田植えをした。
女房は、病気になる前の健康な笑顔で、手際よく苗を植えていく。
これは夢だな。いい夢だな。
秀じいさんはそう思いながら、女房に合わせて歌を歌った。
半分植えたところで、女房は畔に腰を下ろした。
「秀さん、ひと休みすべ」
「ああ、そうすべ」
ふたりは並んで座り、鳥の声を聞きながら、いろんな話をした。
女房はコロコロと笑い、数年前に戻ったようだ。
秀じいさんはごろんと横になり、流れる雲を見た。
「気持ちいいぞ。おまえも寝っ転がってみろ」
そう言って横を見たら、女房はもういなかった。
「なんだ。本当に夢だったか」
いや、夢ではない。女房が植えた苗は、そよそよと風に揺れていた。
「きっと天国に帰ったんだべ」
秀じいさんは起き上がり、大きく伸びをした。

「おじいちゃ~ん」
どこからか声がした。
子供が秀じいさんに向かって手を振っている。
「あれえ、孫の裕太と桃香でねえか」
ふたりの子供の後ろから、息子夫婦が汗を拭いながら歩いてきた。
「父さん、田植えの手伝いに来たよ」
「お義父さん、ご無沙汰しています」
「ほお、珍しいこともあるもんだ」
「昨夜お袋が夢枕に出てきてさ、田植えを手伝えって言ったんだ」
「子供たちの食育体験にもなると思ったんです。この子たち、食が細くて」

都会のもやしっ子が、きゃあきゃあ騒ぎながら苗を植え始めた。
賑やかな声が田んぼに響く。
空の上から、女房が笑っているような気がした。
「今夜はたくさんご飯を炊くべ」


にほんブログ村