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メモリー銀行 [コメディー]

いらっしゃいませ。
こちらはメモリー銀行でございます。
お預かりするのは金銭ではございません。
あなたの、あらゆる記憶をお預かりいたします。

仕事関係の方の名前、役職、電話番号、特徴、趣味など。
大切な方の誕生日、記念日など。
それから、カーテンや家具の寸法。急な買い物に便利です。
もちろん、いろいろなIDやパスワード。
今は、これを預ける方がいちばん多いです。
IDとパスワードを忘れたら、ログインが出来なくて大変ですものね。

セキュリティは万全です。ご安心ください。
ネズミ一匹さえも逃げられない刑務所ほどに万全です。
あっ、例えが悪かったですね。失礼しました。

お預かり方法は、ネットからでも、直接メモや名刺や写真をお持ちになっても結構です。どんなものでもお預かりいたします。
お引き出し方法は、パソコン、スマートフォン等にID,パスワード、暗証番号を入力してログインしていただきますと、全てご覧になることができます。

当行の会員になられますと、もう何も覚えておく必要がないのです。
全てはわたくしどもが管理いたしますので。
いかがですか。
只今キャンペーン中で、入会金が無料となっております。

そうですか。ありがとうございます。
では、こちらにお名前、ご住所、電話番号、会費引き落としの口座番号をお願いいたします。
それから、記憶を引き出す際のIDとパスワードと暗証番号を、こちらのモニターに入力願います。
IDとパスワードは、必ず半角英数字と記号を入れてください。
わかりやすいものではいけません。
なるべく難解な組み合わせにしてください。
それでは覚えられないって?
なるほど。では、そのIDとパスワードと暗証番号もお預かりいたしましょう。

それでは記憶の引き出しができないって?
ご安心ください。
そのうち、当行に預けたことも忘れてしまいますから。

ありがとうございました。


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娘の結婚

娘のアユから、「結婚する」と報告があった。
「お母さんにも出席してほしいの」
アユはそう言って招待状をテーブルに置いた。

5年前、アユが20歳になるのを待って離婚した。
思えばずっと前から、そうすることを私は望んでいた。
男社会の中で働くのは大変で、家族に縛られる時間が苦痛だった。
独身の同期が上に行くのが妬ましかった。

「出席できないわよ。自分の我儘で離婚したのに、お父さんやご親戚に合わす顔がないわ」
「そんなこと言わないで。お母さんは、あたしのお母さんなんだから」
アユに説得されて、私は出席を決めた。嬉しい反面、正直気が重かった。

結婚式当日、まさか留袖を着るわけにもいかず、母の形見の友禅の着物で出かけた。
それなりの物を着て行かないと、もしかしたら花束贈呈があるかもしれない。
受付を済ませ、親族の部屋に案内されて入ると、いきなり厳しい洗礼を受けた。
「あなた、何しに来たの?」
「親族のつもりか? 図々しい」
「相変わらず派手な着物ね。自分が主役のつもりかしら」
見ると、元夫の横に、一回りほど若い女性が寄り添っている。
「うそ、前の奥さん? ちょっと、聞いてないんだけど」
元夫は、迷惑そうに私をドアの外へ追い出した。
「再婚したんだよ。今は彼女がアユの母親だ。君を招待したのは聞いていたけど、はっきり言って親族ではない。ここに来るのはおかしいだろう」
「ごめんなさい。知らなかったの」
私はホテルのラウンジで、披露宴までの時間をつぶした。

言われてみればその通りだ。何を期待したのだろう。
友禅の着物が、商談のサラリーマンたちの中で浮いていた。
アユは、どうして夫の再婚を教えてくれなかったのだろう。
まさか、わざと? これが、5年前に家族を捨てた私への復讐?
モヤモヤした気持ちのまま、披露宴の時間になった。

私の席は、親戚とは離れた、アユの仕事関係のテーブルだった。
変な気を使わずに済むのは助かった。アユの配慮かもしれないと思うことした。
アユのドレス姿は美しく、優しそうな新郎との仲睦まじい姿も見られた。
キャンドルサービスで近くに来たときは、思わず泣きそうになった。
やっぱり来てよかった。
たとえこれが、アユの私に対する復讐だとしても。

アユと10歳くらいしか違わない若い母親が、花束を受け取った。
おそらくアユと1年ほどしか一緒に暮らしていない彼女は、泣くこともなくあっさり花束を受け取った。
私は、味気ない拍手を送りながら、この状況を甘んじて受け入れた。

披露宴が終わると、祝福の輪を抜けて、私は足早に会場を後にした。
おめでとうの言葉をかけることも、許してもらえない気がした。
あえて明日の仕事のスケジュールなどを考えながら回転ドアを開けて外へ出た。

「すみません」と背後から声がして、振り向くとウエディングプランナーらしき女性が立っていた。
「これ、アユさんからです」
彼女はそう言って、さっきまでアユが持っていたブーケを差し出した。
「お母様に、受け取ってほしいそうです」
「私が、もらってもいいの?」
それは、私が好きなピンクのガーベラの花束だった。
戸惑いながら受け取ると、中に小さなカードが入っていた。
『お母さん、仕事が恋人なんて言ってないで、再婚したら』
次の花嫁になれってこと? 何言ってるのよ。
ブーケを握りしめて、思わず泣いた。


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交差点 [ホラー]

夜の交差点に、私は立っています。あの日と同じように雨が降っています。
雨は、私の身体をすり抜けて落ちていきます。
なぜなら私は、幽霊だからです。

私は3日ほど前に、ここで交通事故に遭いました。
私を撥ねた車は、そのまま逃げました。
深夜で、おまけに雨で人通りはなく、防犯カメラも設置されていません。
目撃者はいないのです。
だけど私は、事故に遭った時、車のナンバーを見ました。
しっかりと覚えています。しかしそれを警察に伝える術がないのです。
だって私は幽霊だから。

ひとりの女性が私に気づきました。
ここに立っていれば、ひとりくらいは霊が見える人がいると思ったのです。
私は女性に話しかけました。
「私が見えますか?」
「み、見えます」
女性は怯えた様子で応えました。

「私は3日ほど前、ここで車に撥ねられました。黒のワンボックスカーでした。運転手は、車を降りることもなく走り去りました。ひき逃げです。犯人は未だに捕まっていません。目撃者がいないからです。だけど私は車のナンバーを覚えています。どうか私の代わりに、ナンバーを警察に知らせていただけないでしょうか」
女性は信じられないような顔で私を見ています。
私は4ケタのナンバーを告げて、懸命にお願いしました。
「わかりました」と、女性は言ってくれました。
私は安心して、そこからスッと消えました。
女性が呆然と立ち尽くしているのが、上から見えました。

しばらくたっても、犯人逮捕のニュースは入ってきません。
父も母も毎日泣いています。
「いったい誰があの子をあんな目に遭わせたのだろう」と。
両親のためにも早く犯人を逮捕してほしいのに、まるで進展がないまま数週間が過ぎました。

事故現場をさまようのも、そろそろ限界です。
このまま地縛霊になるのはごめんです。
もう、すべてを忘れて天国に行ってしまいたくなりました。
だけどお花畑の真ん中で、4ケタのナンバーが私を追いかけてくるのです。
「このまま行ってもいいのか」って、数字がぐるぐる回ります。

「だめ、ひき逃げなんて絶対ゆるせない」
私は、4ケタのナンバーを叫びながら、ぱちりと目を開けました。
白い天井が見えました。
お父さんとお母さんがびっくりした顔で見ています。
お母さんは私にすがりつき、お父さんはナースコールを押しました。
「先生、先生、娘の意識が戻りました」

どうやら私は死んでいなかったようです。
事故に遭ってからずっと、魂だけが生霊としてさまよっていたのです。

数日後、ひき逃げ犯が逮捕されました。
それは、あの雨の交差点で、私が4ケタのナンバーを託した女性でした。
「怖くなって逃げてしまいました。数日後、何か証拠を残していないかと、現場を見に行きました。そこで、幽霊を見ました。私の車のナンバーを、呪文みたいに繰り返すので怖くなりました。えっ? 生きてる? あの人、生きてるんですか?」

私はその後、すっかり回復しました。
雨の日と夜は、特に交通事故に遭わないよう気を付けています。
物は考えようで、もしもあのひき逃げ犯があっさり自首していたら、私は安心して天国に行ってしまったかもしれません。
たくさんの車が通り過ぎる交差点で、私は足を止めました。
35-25、14-11、55-85
なぜか、瞬時に車のナンバーを覚える技を身に付けました。


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ぼくんちのお盆 [コメディー]

お盆が来ると、たくさんの親戚が集まる。
叔父さん家族4人、伯母さん家族5人、東京に行った兄ちゃん。
お父さん、お母さん、おばあちゃん、おじいちゃん、中学生のぼく。
総勢15人が、居間に集まる。
ふすまを外して2部屋の仕切りをなくすと、旅館の大広間みたいに広くなる。

お母さんは朝から大忙しだ。
掃除に料理。納戸からお皿を出したり布団を用意したり。
おばあちゃんは手伝わないのに「あの皿の方がいいべ」とか「座布団足らんぞ」とか指図ばかりする。

宴会が始まると、お母さんは料理を並べたりお酒を出したりして、ちっとも座らない。
座ろうとすると決まって「好子さん、ビールがないぞ」と言われたり、「好子さん、ごめんなさい、お醤油こぼしちゃった」と言われたり、「好子さん、子供らにスイカ切ってやってくれ」と言われて、結局お漬物の一切れも食べられない。
ぼくが心配になって台所に顔を出すと
「どうしたの? 早く戻ってみんなと遊びなさい」と追い出される。
従弟たちと遊ぶのは楽しくて、結局お母さんのことを気にしていたのは最初だけだった。

宴会が終わるとお風呂の用意や布団の用意。そして後片付け。
汗を拭いながら、全部お母さん一人でやる。
お母さんがお風呂に入ったのは、おそらく午前0時を回っていた。

翌朝も、お母さんは働く。
誰よりも早起きで、みんなの朝ごはんを作る。
欠伸をしながら起きてきた叔父さんや伯母さんは、当たり前のように座っている。
「好子さん、うちの子、生たまごダメなのよ。目玉焼きにしてくれる?」
「あ、好子さん、うちもお願い」
「牛乳ないの?」「ご飯おかわり」「お茶入れてくれや」
みんな好き勝手言って、お母さんはそのたび台所と居間を行ったり来たり。

昼前にみんなが帰ると、お母さんはやっと座り、ゆっくりお茶を飲んだ。
お父さんと兄ちゃんは釣りに出かけ、おじいちゃんとおばあちゃんは畑に行った。
「お母さん、どうしてお母さんばっかり忙しいの? みんなに手伝ってもらえばいいのに」
「いいのよ。だって他の人に手伝ってもらったら、取り分が減るでしょ」
「ん? 取り分?」

夜になると、お母さんはおばあちゃんに封筒を渡した。
「お義母さん、昨日と今日の請求書です」

『準備費(掃除・布団干し含む)………30,000円
 夕食調理、配膳、後片付け……………50,000円
 床の準備(シーツ洗濯代含む)………10,000円
 朝食調理、配膳、後片付け……………30,000円』

「〆て12万円になります」
「好子さん、去年より高くないかい?」
「去年より、料理の腕が上がっていますから」
「仕方ないねえ。まあ、来年も頼むよ」
お母さんは「毎度あり」と言って、おばあちゃんからお金をもらっていた。

「お母さん、働いた分のお金、ちゃんともらっていたんだね」
「そうよ。だってね、おばあちゃん、叔父さんと伯母さんから10万円ずつもらっているのよ。何もやらないくせに独り占めさせるものですか」

お母さん、すげー。
ぼくは密かに、来年はお手伝いをしよう。1万円でいいや、と思った。


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傘の花 [公募]

春から夏にかけて、たくさんの花が咲くけれど、私にとって最も愛しいのは「傘の花」だ。
雨上がりの澄んだ光の中、六つの傘の花が軒先に咲く。それは我家の幸せの象徴だ。

夫の黒い傘、私の赤い傘、長女の夕菜はオレンジの傘、長男の海斗は青い傘、次男の草太は緑の傘、末っ子の桃香はピンクの傘。
それぞれのカラーが、右から大きい順に並んでいる。
通りすがりの人が目を細めるほど、それは微笑ましい風景だった。

**
雨が降り続いている。六つの傘が軒下に咲くことは、もうない。
家族で出かけたハイキングの帰り道、突然の集中豪雨に見舞われ、私たちが乗ったバスがスリップして崖から転落した。家族の中で、私だけが生き残ってしまった。

あの日から、ずっと雨が続いている。
色のないこの部屋に、雑音のような雨音が絶え間なく聞こえる。
気が狂いそうな寂しさに耐えながら、楽しかった日々を思い出そうとしても、雨は私の心にまで降り続き、やがて嵐のようにすべてを奪ってしまうのだ。

雨が続いているせいで、昼も夜も暗い。
日にちの感覚がわからないほど、私の心が壊れかけている。そんなときだった。
容赦なく窓ガラスを打ち付ける雨音に混ざって、子供たちの声が聞こえてきた。
「お母さん、算数のテストで百点とったよ」
しっかり者の夕菜の声。優しくて、お手伝いもよくしてくれた。
「お母さん、サッカーの大会で点入れたよ」
元気な海斗の声。負けず嫌いな頑張り屋さん。運動会ではいつも一等だった。
「お母さん、家族の絵を先生に褒められたよ」
おっとりしている草太の声。時々大人みたいことを言って驚かせてくれた。
「お母さん、桃ちゃんひとりで、お買い物に行けたよ」
甘えん坊の桃香の声。おしゃれが大好きで、幼稚園にはいつも違うリボンを付けて行った。

あなたたちはどこにいるの? この雨の中に閉じ込められているの? 
子供たちに逢えるなら、嵐の中でも飛び込んで行く。
本当にそう思っているのに、なぜか私の体は雨を恐れていて、外に飛び出すことができない。

リビングに置かれた茶色のソファーには、いつも誰かが座っていた。
夜になると、三人掛けのソファーを奪い合うように、夫と四人の子供たちが押し合いながら座っていた。
根負けして最初にソファーを下りるのは決まって草太で、子供と一緒になってはしゃぐ夫を、私が何度もたしなめたものだ。

今私は、一日中ソファーにいる。占領する私に、「ずるーい、お母さん」と誰かが言ってくれるまで、ずっとソファーに座っている。
ふと、小さな歌声が聞こえてきた。
雑音のような雨音がいつの間にか消えて、代わりに聞こえてきたのは小鳥のさえずりだ。
長い雨が、ようやく止んだ。

私はソファーから体を起こし、窓辺に近づいた。
どんよりと暗かった空に光がさしていて、その先に大きな虹が出ていた。
「まあ、きれい」
虹が出ているよと、子供たちに声をかけそうになって、いないのだと気づいた。
ため息混じりにうつむいて、窓を閉めようとした私の目に、七色の虹よりもずっと愛しい、五つの色が飛び込んできた。
軒先に五色の傘の花が咲いていた。
夫の黒い傘、夕菜のオレンジの傘、海斗の青い傘、草太の緑の傘、桃香のピンクの傘。
右から大きい順に並んでいる。
「五人でお出かけしたのね。お母さんも連れて行って欲しかったな」
手をのばしたら、五つの傘はふわりと宙に浮いて、空へと昇っていく。
「待って。私も連れて行って」
私は、重い体を思い切り伸ばして、黒い夫の傘の柄を、ようやく掴んだ。
連れて行って。あなたたちの世界に、私を連れて行って。

硬くて冷たいはずの傘の柄が、温かくて柔らかいものに変わり、子供たちの声が近くに聞こえた。
もうすぐ逢える。空の上に行ったら、みんなで虹を見下ろそうね。

**
目が覚めたら、夫が私の手を握っていた。
「よかった。戻ってきてくれたんだね」
夫の後ろで、子供たちが泣いていた。
身体の痛みと、子供たちの腕や足に巻かれた包帯で、私は現実を知った。

あのバスの事故で、私だけが意識不明の重体だった。
土砂降りの世界から、夫と子供たちが私を救ってくれたのだ。
「お母さん、虹が出てるよ」
桃香が小さな手で指さした。
夕菜がカーテンを開けてくれて、海斗があそこだよと教えてくれて、草太が上手に絵を描いてくれた。

明日、我家の軒先に、傘の花が咲く。


******
公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただきました。
課題は「かさ」です。
いろんな「かさ」がありますね。勉強になります。
今月の課題は「切符」です。まだ何も浮かびません。


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キッチンの魔女 [ホラー]

気配を感じて振り返ると、キッチンに女が立っていた。
淡い光に包まれて薄ぼんやりとしたシルエットは、彼女が生きている人間ではないことを物語っている。

「キッチンだけは汚すな」と、結婚前に夫に言われた。
他はいいけど、キッチンだけはきれいにしてくれと。
私はその言いつけを守っていた。

女は、ピカピカのシンクを満足そうに見つめ、ふわっと消えた。
何だったのだろう。
夫には死別した前妻がいた。その人だろうか。
私は、帰宅した夫にその出来事を話した。
夫は、少し辛そうに話してくれた。

「じつは、前の妻はきれい好きでね、キッチンだけは汚したくないと、暇さえあればシンクを磨いているような人だったんだ」
前妻は、亡くなる前に「キッチンを汚したら化けて出るわよ」と言ったそうだ。
「もちろん冗談だと思うよ。でもさ、死んだ妻のために、いつもキッチンはきれいにしておこうと思ったんだ。君に話すと嫌がると思って言えなかった。ごめん」
「謝ることなんてないわ。私がきちんとしているか確認に来たのね。大丈夫よ。私、ちゃんとするから」
不思議と怖さは感じなかった。

それから私は、彼女がいつ来てもいいようにキッチンをピカピカにした。
1年後に、子供が生まれるまでは……。

子育ては、予想以上に大変だった。
夜は眠れないし、一日中手がかかる。洗濯物は倍に増えた。
掃除なんて、どうでもよくなる。
シンクには生ごみがたまり、水垢のラインが無数にできた。
やらなきゃ、やらなきゃと思いながら出来ずにいた。
夫も仕事が忙しく、帰宅は毎日深夜で、休日は疲れて寝てしまう。

部屋もキッチンも日に日に汚れていく。
子供の泣き声と散らかった部屋。
疲れ果てた夕方、再びあの気配を感じた。

キッチンに女が立っている。
前のように優しい表情ではない。
恐ろしい悪魔のような顔でシンクを見ている。

突然部屋の電気が消えて、キッチンの水道が勢いよく流れだした。
私はとっさに子供を抱きしめた。何をされても、この子だけは守らなければ。
震えながら、水音だけが流れる部屋で時が過ぎるのを待った。
「ごめんね。ママがちゃんとしないから。怖いよね。ごめんね」

どれくらいの時間が過ぎただろう。
電気がついて、夫が帰ってきた。
「いったいどうしたんだ? キッチンが水浸しだ」
我に返り子供を見ると、すやすやと眠っている。女は消えていた。

私は子供をベッドに寝かして、夫とふたりでキッチンの掃除をした。
「ごめんね。キッチンを汚していたから、あの人を怒らせたわ」
「僕も悪かった。仕事にかまけて子育てに協力しなかったね。仕事も一段落したし、明日から僕がシンクを磨こう」
夫が優しく笑ってくれた。

子供がすやすや眠っているので、私たちは久しぶりにゆっくり夕食を食べた。
「あの子がこんなに寝てくれるなんて珍しいわ」
「何かしたのかも……」
「何かしたって、誰が?」
「前の妻との間に子供はいなかったけど、彼女は保育士でね、子供をあやすのがすごく上手だったよ」

私が震えている間に、彼女が子供をあやした? そんなばかな。
子供は、ステキな夢を見ているような笑顔で眠っている。
まさかね。
食器を片付けてシンクを磨き上げると、どこからか優しい風が吹いた。


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月がきれいですね [男と女ストーリー]

きれいな満月の夜。あなたはいない。
すぐに逢いに来るって言ったのに、うそつきだな。
満月の夜、僕も同じ月を見るよって言ったのに、
あなたの街は雨じゃないの。
ホントにうそつきだな。

お祭りいっしょに行きたいねってメールしたのに返信もない。
忘れちゃったのかな。私のこと。
なんか泣きたくなってきた。
月がきれいすぎて。


やっべえ。電車で爆睡して終点まで行っちゃった。
疲れているのかな。最近仕事きつかったからな。
夕方までに帰って彼女を驚かせようと思ったのに。
すっかり夜だ。
お祭り、間に合うかな。やっぱりメールしておこう。
わあ、きれいな満月だな。
彼女も同じ月を見ているのかな。
そうだ。ちょっとロマンチックなメールにしよう。


あ、彼からメールだ。もう、どれだけ待たせるんだよ~。
『月がきれいですね』だって。
はあ???
月がきれいですね? あなたの街は雨でしょう?
毎日あなたの街の天気予報、チェックしてるんだから。
もう、ホントにうそつき!


彼女からの返信だ。
『うそつき』
えええ~?

遠距離恋愛の可愛いふたりが、並んで月を見るのは30分後のことでした。


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