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キッチンの魔女 [ホラー]

気配を感じて振り返ると、キッチンに女が立っていた。
淡い光に包まれて薄ぼんやりとしたシルエットは、彼女が生きている人間ではないことを物語っている。

「キッチンだけは汚すな」と、結婚前に夫に言われた。
他はいいけど、キッチンだけはきれいにしてくれと。
私はその言いつけを守っていた。

女は、ピカピカのシンクを満足そうに見つめ、ふわっと消えた。
何だったのだろう。
夫には死別した前妻がいた。その人だろうか。
私は、帰宅した夫にその出来事を話した。
夫は、少し辛そうに話してくれた。

「じつは、前の妻はきれい好きでね、キッチンだけは汚したくないと、暇さえあればシンクを磨いているような人だったんだ」
前妻は、亡くなる前に「キッチンを汚したら化けて出るわよ」と言ったそうだ。
「もちろん冗談だと思うよ。でもさ、死んだ妻のために、いつもキッチンはきれいにしておこうと思ったんだ。君に話すと嫌がると思って言えなかった。ごめん」
「謝ることなんてないわ。私がきちんとしているか確認に来たのね。大丈夫よ。私、ちゃんとするから」
不思議と怖さは感じなかった。

それから私は、彼女がいつ来てもいいようにキッチンをピカピカにした。
1年後に、子供が生まれるまでは……。

子育ては、予想以上に大変だった。
夜は眠れないし、一日中手がかかる。洗濯物は倍に増えた。
掃除なんて、どうでもよくなる。
シンクには生ごみがたまり、水垢のラインが無数にできた。
やらなきゃ、やらなきゃと思いながら出来ずにいた。
夫も仕事が忙しく、帰宅は毎日深夜で、休日は疲れて寝てしまう。

部屋もキッチンも日に日に汚れていく。
子供の泣き声と散らかった部屋。
疲れ果てた夕方、再びあの気配を感じた。

キッチンに女が立っている。
前のように優しい表情ではない。
恐ろしい悪魔のような顔でシンクを見ている。

突然部屋の電気が消えて、キッチンの水道が勢いよく流れだした。
私はとっさに子供を抱きしめた。何をされても、この子だけは守らなければ。
震えながら、水音だけが流れる部屋で時が過ぎるのを待った。
「ごめんね。ママがちゃんとしないから。怖いよね。ごめんね」

どれくらいの時間が過ぎただろう。
電気がついて、夫が帰ってきた。
「いったいどうしたんだ? キッチンが水浸しだ」
我に返り子供を見ると、すやすやと眠っている。女は消えていた。

私は子供をベッドに寝かして、夫とふたりでキッチンの掃除をした。
「ごめんね。キッチンを汚していたから、あの人を怒らせたわ」
「僕も悪かった。仕事にかまけて子育てに協力しなかったね。仕事も一段落したし、明日から僕がシンクを磨こう」
夫が優しく笑ってくれた。

子供がすやすや眠っているので、私たちは久しぶりにゆっくり夕食を食べた。
「あの子がこんなに寝てくれるなんて珍しいわ」
「何かしたのかも……」
「何かしたって、誰が?」
「前の妻との間に子供はいなかったけど、彼女は保育士でね、子供をあやすのがすごく上手だったよ」

私が震えている間に、彼女が子供をあやした? そんなばかな。
子供は、ステキな夢を見ているような笑顔で眠っている。
まさかね。
食器を片付けてシンクを磨き上げると、どこからか優しい風が吹いた。


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