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大切なもの [公募]

藤田は子供のころから、ポケットに手を入れる癖があった。
しかもその中で指を動かすものだから、すぐに穴があいてしまう。
だから藤田は、大切なものをいくつも落とした。
母親からお使いを頼まれたときの小銭、友達にもらった光るビー玉、自転車の鍵、キャンディ、チケットなど、数えきれない。

藤田は30歳になった。
ポケットに手を入れる癖は相変わらずで、ポケットに穴をあけるのも日常茶飯事だが、学習能力がある彼は、大切なものは入れないように心がけている。
藤田の人生は順風満帆だ。大手の建設会社で働き、この春素敵な女性と結婚した。

藤田は今日、ひどく緊張している。
新しいショッピングモールの候補地を決める会議で、プレゼンをすることになっている。
必要な資料を抱えて会議室に向かう藤田を、先輩社員が呼び止めた。
「おい藤田、結婚指輪は外した方がいいぞ」
「えっ? なぜです?」
「開発部長の桐島さん、最近離婚してさ、結婚指輪をしている男に手厳しいって噂だ」
桐島部長は、この会社では珍しい女性の幹部だ。
陰で鉄の女と呼ばれるほど冷酷で厳しいと評判だ。しかも開発部長の意見は重要だ。
藤田は理不尽だと思ったが、左手の薬指から指輪を外し、ポケットに入れた。

重箱の隅をつつくような質問に、しどろもどろになりながらも、藤田は何とかプレゼンを終えた。
最後に桐島部長から「目の付け所はいいわ」と褒められ、ホッとしながら自分のデスクに戻り、指輪を嵌めようとポケットを探った。
「ない……」
ポケットには、ちょうど指輪がすり抜けるためにあいたような穴があった。

「指輪を失くしただって? 新婚なのにまずいぞ。奥さんに浮気を疑われるぞ」
そう言ったのは、さっき指輪を外すように言った先輩だ。
藤田は焦った。あの指輪は、ジュエリーデザイナーをしている妻の叔母が、特別に作ってくれたものだった。しかも追い打ちをかけるような妻からの電話だ。
「仕事中にごめんね。急なんだけど、今夜叔母が遊びに来ることになったの。ほら、指輪を作ってくれた叔母よ。だから今日、早く帰って来て欲しいんだけど大丈夫?」
「うん、わかった」と答えながら、藤田は頭が真っ白だった。指輪を探さなければ。

彼は昼休みに食事も摂らず、指輪を探した。
自分のフロアから会議室に続く廊下をくまなく見て回り、会議室も隅から隅まで見た。
見つからない。一体どこで落としたのだろう。
正直に話した方がいいだろうか。妻は優しく聡明な女性だ。
先輩が言うような、浮気を疑うような女性では断じてない……と思う。
藤田は自分を励ますように頷いて、自分のデスクに戻った。

「藤田さん、桐島部長がお呼びですよ」
女子社員に言われて、藤田は力なく立ち上がった。
平社員の藤田を直接呼ぶなんて、資料に不手際でもあったのだろうか。
泣きっ面に蜂とはこのことか。重い気持ちを抱えて、開発部に向かった。

「失礼します。藤田です」
桐島部長は、見ていた資料から顔を上げ、黒ぶちの眼鏡を外した。
「藤田君」
「はい、すみません」
「何を謝ってるの。まだ何も言ってないわ」
桐島部長は、机の引き出しから白いレースのハンカチを出し、藤田に差し出した。
「藤田君、あなた、こんな大切なものを落としちゃダメでしょう」
白いハンカチの中央に、プラチナの結婚指輪が輝いていた。間違いなく藤田のものだ。
桐島部長が指輪を拾い、その裏側に彫られた名前で、藤田の物だと気づいたのだ。
「ありがとうございます」
藤田は思わず泣きそうになりながら、指輪を嵌めた。
「大切にしなさいよ。指輪も、家族も」
鉄の女と呼ばれるその人は、真綿のような柔らかい表情をしていた。

「ねえ藤田君、ポケットに手を入れるのは、やめた方がいいと思うわ。何度か見かけたことがあるけど、あまり行儀がよくないわね」
「すみません。子供のころからの癖でして」
「これからは、その手をポケットに入れる代わりに、奥さんの手をしっかり握りなさい。絶対に離しちゃだめよ」
桐島部長はそれだけ言うと、眼鏡をかけていつもの厳しい顔に戻った。
藤田は深々と頭を下げて部長室を後にした。安心感からか急に腹が減ってきた。
「今日は早く帰ろう」とつぶやき、ポケットに手を入れそうになったとき、妻の顔が浮かんだ。
藤田はその手を戻し、指輪を見つめて歩き出した。

******

公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただきました。
テーマは「落とし物」でした。


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桜が見える部屋 [公募]

南側の窓を開けると、桜の花びらがふわりと舞い込んできました。
川向こうの桜並木から、はるばる風に乗ってやってきたのでしょう。
小さな花びらは、しばらく空中で遊びながら、あなたの写真の上にちょこんと舞い降りました。
桜が好きだったあなたが、写真の中で笑っています。

一緒に暮らすことになったとき、あなたはいつになくはしゃいだ声で言いました。
「いい部屋を見つけたよ。窓から素晴らしい桜並木が見えるんだ」
年に一度の桜より、駅に近い方がいいと正直思いましたが、あなたがあまりに嬉しそうなのでこの部屋に決めました。
桜が見えるこの部屋で、あなたと生きると決めました。

あなたは居酒屋で働き、私は図書館で働いていました。
昼と夜、すれ違いの毎日でしたが、私が出かけるとき、あなたは必ず布団の中から顔を出して「いってらっしゃい」と言ってくれました。
伝えたいことを手紙に書いておくと、疲れて明け方に帰ってきても必ず返事をくれました。
『子供たちに読み聞かせをすることになりました。上手くできるか心配です』と書けば、『君の優しい声を聞けば、子供たちはきっと、もっと読んでとせがむでしょう。僕も子供に混ざって聞きたいくらいだ』と書いてくれました。
本当に優しい人でした。

互いに仕事が休みの日は、一緒にお散歩をしました。
河原に座って、ただ風に吹かれるだけで幸せでした。
言葉がなくても気持ちが通じる人に出会ったのは初めてでした。
春にはこの部屋で、桜を見ました。
「やっぱりこの部屋にしてよかったね。家の中で花見ができるなんて贅沢だろう」
桜を見るたびに、あなたは得意げに言いました。
私は少しうんざりして「はいはい」と笑うのでした。
私たちは、この先何年も何年も、一緒に桜を見ると信じていたのです。

この部屋で見る三度目の桜が満開になった夜、ひとりの女性が訪ねてきました。
彼女は目に涙をためて、あなたの名前を呼びました。
「どれだけ探したと思っているの」と泣きながらあなたにすがりました。
「マキもパパを待っているわ」と、彼女が子供の名前を出すと、あなたの表情が少し揺れました。

五年前に家族を捨てて失踪したのだと、あなたは話してくれました。
仕事が上手くいかず、心のバランスを崩したのだと。
住処を転々として、小さな町の居酒屋に落ち着き、そこで私と出会ったのです。
やっと居場所を見つけたのだと、あなたは言ってくれました。
だけど事情を知ってしまった以上、もうあなたと暮らすことは出来ません。
私はあなたを追い出しました。
罵って、泣きわめいて、あなたを切り捨てました。
あなたを「パパ」と呼ぶ子供には、どうしたってかなわないと思ったからです。

あなたがいなくなったこの部屋で、私は何度桜を見たでしょう。
「今年も咲いたわ」と、あなたの写真に何度話しかけたでしょう。
虚しいだけだと知りながら、私はあなたの抜け殻と暮らし続けているのです。

あなたの写真に貼り付いた桜の花びらを指でつまんで、風に乗せてあげました。
やはり川向こうから来た花びらたちと一緒になって、気持ちよさそうに空を漂っています。
私はあなたの写真を持って外へ出ました。
あなたの抜け殻を捨て、歩き出そうと決めました。
思い出にすがって生きるのはやめて、桜の木の下に写真を埋めることにしました。

桜並木を歩いていると、肩や髪に花びらが舞い降りてきます。
「満開の桜も好きだけど、散り際の桜もいいね」
捨てようと思っているのに、写真のあなたが話しかけてきます。
振り切るように一本の桜の木を選び、その下にしゃがみこみました。
あなたの笑顔を、ここに埋めます。
それであなたへの想いが消えるわけではないけれど、気持ちにけじめをつけたいのです。

硬い土を掘り起こそうとしたときです。
風に乗ってあなたの声が聞こえました。懐かしいその声は、私の名前を呼んでいます。
顔を上げると、ひとつ先の桜の下に、あなたが立っています。
ついに幻を見てしまったと、不自然な瞬きをくり返す私を見て、あなたは照れたように頭を掻きました。
「妻に追い出されてしまったよ」
不器用に笑いながら、少しずつ私の方に近づいてきます。
「娘がこの春社会人になってね、もう僕は、あの家に必要ないんだってさ」
桜の花びらが、雪のように絶え間なく降っています。
その光景はまるで、夢と現実の境目のようで、私は思わずつぶやきました。
「これは夢なの?」

懐かしい腕が、私を抱きしめました。
「またふたりで、桜を見よう」
何もかもが薄紅色に染まっていく景色の中で、私は小さく頷きました。

******

公募ガイド「TO-BE小説工房」で落選だったものです。
テーマは桜でした。
書きやすいテーマだっただけに、難しかったですね。
後から読み直して、この作品はハッピーエンドじゃない方がよかったかも と思いました。
どうでしょうか?


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新人さん [公募]

朝は誰よりも早く出社して、社員たちが気持ちよく働けるように掃除をする。
入社してからずっとそうしてきた。
今朝も、当然一番乗りだと思ったら、社長が鼻歌を歌いながら机を拭いていた。
「おはようございます。社長、早いですね」
「春日さん、おはよう。ほら、今日から新人さんが来るでしょ。だからね、彼女が気持ちよく働けるように、机をきれいにしてたんだ」

社長がだらしなく鼻の下をのばしながら言った。
社長をここまで張り切らせた新入社員の彼女は、面接で一度微笑んだだけで採用が決まった。
美人で愛らしく、そして若かった。

先代の社長に見初められ、私がこの小さな食品会社に入社してから30年が過ぎた。
先代の社長は、5年前に奥様を亡くしてから急に気力を失い、息子に社長の座を譲った。
息子である今の社長の代になってから、会社の雰囲気はがらりと変わった。
新しい機械を次々に導入して、システムを変え、古くからいる年配社員をリストラした。
すっかり若返った会社で、私だけが浮いていた。

社長が、私を疎ましく思っているのは知っている。
私は新しい機械やシステムを必死で勉強して、何とかこなしているからクビにできない。
そこで社長は、若い事務員を雇い、私が居づらくなって辞めるように仕向けるつもりだ。
この狭い事務所に、二人の事務員はいらない。

いつもは就業時間ぎりぎりに来る従業員たちが、10分以上早く出社した。
「あれ、社長、新人さん、まだですか?」
「うん。道に迷っているのかな。どう思う? 春日さん」
「一度面接に来ているのに迷うはずがありません。よほどのバカでなければ」
「電車の遅延かな。遅延の情報入ってない? 春日さん」
「すべて平常運転です」
社長を始めとする男性社員が、首を長くして待っていても、彼女は一向に現れない。
とうとう就業時間を過ぎてしまった。
「社長、そろそろ朝礼を」
「ちょっと待って。新人さんに電話してみる」
社長が履歴書を見ながら電話をかけたが、どうやら繋がらないようだ。
「社長、朝礼を」
「うーん、今日はいいや。僕はここで新人さんを待つから、各自職場について」

男性社員たちが、がっかりした様子で営業や倉庫に向かうと、事務所には社長と私だけになった。
ピカピカの机に座るはずの美しい新入社員は、30分を過ぎても来ない。
時計を見ながら溜息ばかりの社長に、私は言った。 
「ドタキャンじゃないですか?」
「ドタキャン?」
「平気でドタキャンするらしいですよ。あの人。女友達には、すこぶる評判悪いです。約束は破るし、男の前では態度が違うらしいですよ、あの人」
「どうしてそんなことを知ってるんだ」
「彼女の身辺をリサーチしたんですよ。だって、これから机を並べて仕事するのがどんな人か、知りたいじゃないですか」
「春日さん、どういうつもり? 何の権限があってそんなことを」

社長が蔑むような顔で言った。
「嫉妬? 若くて美人の新人さんに嫉妬してるのかな? 見苦しいぞ、春日さん」
「社長、その美人で若い彼女は、前の会社を半年足らずで辞めていますね。その辺の理由はきちんとお聞きになりましたか? この職種に関する知識は、どの程度あるのでしょう」
社長の顔色が変わった。
「それに、さっきから新人さんって呼んでいますけど、彼女に名前はないんですか。外見ばかりに気を取られて、内面をちゃんと見ていない証拠ですよ」
「俺に意見するなんて、あんた何様だ」
社長がついに、顔を真っ赤にして怒った。
「出過ぎたことを申しました。すみません」
「わかればいいんだ。二度と俺に意見するな」

「社長、ひとつご報告があります。私、先代の社長、つまりあなたのお父様から、正式に求婚されました。お受けするつもりです」
「え?」
「これからは会長夫人として、会社のお役に立ちたいと思っております。多少の意見はご容赦下さい」
いくつになっても父親に頭の上がらない社長は、明らかに動揺して、気持ちの整理がつかない様子で用もないのに倉庫へ向かった。

新入社員はとうとう来なかった。
来るはずがない。私が事前に連絡したのだから。
「この会社はひどいブラック会社で、男性社員のセクハラが原因で何人もの女子社員が辞めている。入社を取りやめた方がいい」と嘘八百を並べて、彼女の入社を阻止した。

だって、職場の花はひとりで充分でしょう。


********
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
テーマは「新人」でした。
佳作など読みましたが、やはり新入社員の話が多かったですね。
「今年の新人は」などと毎年言われますが、「今の若者は」と、昔から言われ続けるのと同じで、誰もが通る道なのですね。
でも、ここ数年は明らかに「ちょっと違うな」と思うのは私だけでしょうか。
年取ったから?


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TO-BE小説工房、最優秀 [公募]

公募ガイド「TO-BE小説工房」で、最優秀賞をいただきました。
課題はカメラでした。
嬉しいことに、3度目の最優秀です。

上手く書けても書けなくても、とりあえず毎回出そうと決めています。
課題に沿って書くのは、すごく勉強になるし、このような賞をいただくと、
本当に励みになります。
これからも、よい報告ができるようにがんばります^^

作品は、公募ガイド3月号で読むことができます。
タイトルは「忘れ物」です。
よかったら、読んでみてください。

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授かりました [公募]

半年間の海外赴任から帰った日、妻の沙織が神妙な顔で言った。
「子どもを授かりました。九週目に入ったところです。つまり、妊娠三ケ月です」
「えっ? いや、僕は半年前に海外赴任になって、その間一度も家に帰っていないじゃないか。いったい誰の子だ」
面食らって慌てふためく僕を尻目に、沙織は至って冷静だ。
「神様から授かった子どもよ」
「はあ?」

沙織には、幼少期からずっと信じている神様がいる。
南の島に昔から伝わる由緒ある神で、沙織の祖母がその島の出身だったから当然のように信じ、毎朝祈りを捧げている。
新婚だったにも関わらず海外赴任についてこなかったのも、神への祈りが疎かになることを恐れたからだ。

時差ボケもあって頭の整理がつかないまま、僕は同僚二人と酒を飲んだ。
「なんだ、そりゃ」
鈴木は腹を抱えて笑った。
「そりゃ、間違いなく奥さんが浮気してできた子だろう。聖母マリアじゃあるまいし、すげー言い訳だな」
「でもさ、とても嘘をついているように思えないんだ。後ろめたい気持ちが、まるで感じられないし、神様に祈るときみたいに穏やかな顔で腹を擦っているし」
ずっと黙って聞いていた山下が、腕組みをしながら「そういう話、聞いたことがある」と静かに言った。
「知り合いに、小さな島の出身者がいるんだけど、住民がすべて島を離れて、今は無人島になっているんだ。その島に祀られていた神様は、島の記憶を残すために、神を信じ続ける人に命を授けるそうだよ」
そういえば、沙織が信じる神が祀られた島も、今はもう無人島になっている。
「奥さんとよく話し合ってみろよ。神様のことも、ちゃんと理解した方がいいな」
山下は、いつも的確な答えをくれる。
その横で赤い顔をした鈴木が「ありえねえだろ」と、相変わらず笑っていた。

翌日、僕は沙織と向き合った。
沙織は、壊してはいけない宝物を預かったように、優しくお腹を撫でていた。
「つまりその子は、神様ということかな?」
「そうじゃないわ。神様が授けてくれた、私とあなたの子よ」
「将来は教祖様になるとか、そういうことじゃないの?」
「宗教団体じゃないのよ。私たちの神様は、私たちの心の中にいるの」
「僕は、その神の子と、どう接すればいい?」
「父親として普通に接するのよ。もしかしたら、あなたに似ていないかもしれない。だけど神様があなたと私を信じて授けてくださったのよ。ねえ、一緒に育てましょう」

完全に理解したわけではないけれど、僕は沙織を信じることにした。
沙織に男の影などまるでない。
かいがいしく家事をこなし、夕飯は僕の好きなおかずを並べてくれた。
休日はゆっくり散歩をして、胎教にいい音楽を聴いて過ごした。
お腹が大きくなると、不思議なことに父親としての自覚が芽生え、無事に生まれることだけを願った。

「奥さん、そろそろ臨月か」
そう言いながら、山下がビールを注いだ。
「いいのか? 他の男の子供かもしれないぜ」
鈴木は未だに疑っている。
「生まれたら見に来いよ」
僕の心は穏やかだ。沙織は今まで以上に熱心な祈りを捧げるようになった。
「子供と、あなたの分も祈っているのよ」
菩薩のように優しい顔だ。僕はお腹の子供に話しかける。「お父さんだよ」

しばらくして、沙織は女の子を産んだ。沙織にそっくりな可愛い子だ。
「島の記憶を持って生まれたのかな」
「島の記憶? なにそれ?」
「前に同僚の山下が言っていたんだ。今は誰も住んでいない島の記憶を残すために、神様が信者に命を授けるって話」
「そうか。そういうことなのね」
沙織が愛おしそうに赤ん坊の頬を撫でた。

***
数日後、ひとりの男が沙織の病室を訪ねた。
「あら、山下さん、仕事中じゃないの?」
「抜けてきたんだ。土日に来るわけにいかないだろう。それよりおめでとう。可愛い女の子だね。俺に似なくてよかった」
「ええ、ちょっとドキドキしてたわ」
「しかし君も嘘がうまいな」
「あなたこそ。山下さんのおかげで、あの人すっかり信じたわ」
「罰が当たるかな、俺たち」
「大丈夫よ。私、毎日拝んでいるもの」

*******

公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「神」でした。難しいテーマです。
今月の課題は「桜」
きれいな話を書きたいけど、まだ手付かずです。
いいご報告が出来るように頑張ります^^


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アサヒ [公募]

路線バスの中は騒音に近い。
駅から乗り込み、僕の隣に座った四人のばあさんが、ひっきりなしにおしゃべりをしている。
家族構成までわかるほどに明け透けで、個人情報だだ漏れだと苦笑したとき、隣に座るばあさんの言葉に、僕の耳が反応した。

「孫のアサヒが、W大に入ったのよ」
アサヒ?
「中学のときに不登校になってね、心配したけど、ほら、あの子頭がいいし頑張り屋でしょう。それで、一年遅れでW大に行ったの」
アサヒって、あの旭か? 
僕の胸が、ひどくざわついた。

中学の頃、僕は理由もなくイラついていた。
同じようにイラついていた仲間と、同級生を苛めた。
ターゲットにしたのは、誰ともつるまずに本ばかり読んでいた、同級生の旭だ。
パンやジュースを買いに行かせるところから始まり、金を持ってこさせたり、女子の前でわざと卑猥な言葉を言わせたりした。
服を脱がして裸の写真を撮り、ネットに流すと脅して抵抗できないようにした。
時々、暴力も振るった。旭は、そのうち学校へ来なくなった。
僕達も受験勉強が忙しくなって、苛めは何もなかったようにフェイドアウトした。

旭は、卒業式も来なかった。
高校生になると、「旭死亡説」が流れた。
中学時代の苛めを苦に自殺したとか、死に切れなくて植物状態になったとか、精神を病んで入院したとか、色々な噂が流れた。
それらを聞くたびに僕は、耳をふさいで、すべてを忘れようとした。

隣のばあさんが話すアサヒが、あの旭だったら僕は嬉しい。
生きているならそれでいい。重い荷物をようやく降ろせる気分だ。
隣のばあさんが立ち上がり、バスを降りて行った。
途端に、その隣にいたばあさんが、たった今降りたばあさんの悪口を言い始めた。
「スミちゃんの言うことは、話半分に聞かないとダメだよ。あの人嘘ばっかりつくから。孫がW大だって? 本当かどうか。実は未だに引きこもっているって噂よ」
W大は嘘なのか? まだ苛めを引きずっているのか? 
気になって聞き耳を立てたが、それ以上にアサヒの情報を聞けないまま、そのばあさんは降りてしまった。

「アヤさんは相変わらずだね。孫がいないから、スミちゃんが羨ましいんだろう。やっかみだよ。ああ、いやだ、いやだ」
今度は、今降りたばあさんの悪口が始まった。
どうでもいいけど、アサヒのことが知りたい。
大学に行っているのか、引きこもっているのか、いったいどっちなんだ。
結局そのばあさんも、次のバス停で降りてしまった。

バスの中は、一番端で頷いていたばあさんと、僕だけになった。
さっきから黙って愚痴や自慢話を聞いていたばあさんだ。
僕はさりげなく立ち上がり、ばあさんの隣に座った。
「あの、ちょっと話が聞こえて……その、スミさんのお孫さんがW大に入ったって……」
ばあさんは、怪訝な顔で僕を見た。
「あなた、アサヒちゃんの知り合いなの?」
「あ……同級生で、その、どうしているか気になってて」
「スミちゃんのお孫さんのあさひちゃんが、可愛いお嬢さんだってことは知っているけど、どこの大学に行ってるかなんて知らないよ」
「えっ? お嬢さん?」
アサヒは女か。それなら間違いなく旭ではない。
なんて人騒がせだ。思い出したくないことを思い出してしまった。
やれやれと立ち上がった僕の背中を、ばあさんが引き止めた。

「中学校のときに、ひどい苛めに遭っていた旭なら知ってるよ」
振り向いた僕を、ばあさんが険しい顔で見ていた。
まっすぐな目が「何もかも知っているよ」と言っているようだ。
「あんたたちが苛めた旭は、私の孫だよ。通信制の高校に行って、今じゃ立派に介護の仕事をしているよ」
目に涙をためて、責めるように僕を見た。
「安心したかい?」
ばあさんの視線が刺さって、凍りついたように動けない。
「でもね、旭は、あんた達を安心させるために生きているわけじゃないよ」
今にも掴み掛りそうだ。身体じゅうで怒りを表わしている。
僕は慌てて降車ボタンを押し、降りるはずの停留所よりはるか手前で、逃げるようにバスを降りた。
通り過ぎるバスの窓で僕を睨むばあさんの顔が、怯える旭の顔と重なった。

どんなに呼吸を整えても、胸の動悸が治まらない。暑くもないのに汗が止まらない。
旭が生きていたことに、僕は安心している。
だけどそれは、旭を想ってのことではない。
一生消えない罪悪感を、この先ずっと背負っていくことを思い知った。
うずくまる僕の背中を、木枯らしが通り過ぎた。


*****

公募ガイドTO-BE小説工房で、選外佳作だった作品です。
選外佳作とは、もう少しで佳作(ようするに落選です)
今月のテーマは「新人」。
せめて佳作に入れるように頑張ります^^


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あの人の鍋 [公募]

つきあって二か月目の今日、初めて彰さんの家に招かれた。
彰さんとは婚活パーティで出会った。
女性ばかりの職場で婚期を逃した私と、三年前に妻を亡くして一児の父である彰さんは、出会ってすぐに結婚を意識した。
時間をかけて整えた髪を、木枯らし一号が容赦なく崩す。
乱れた髪で、葱や豆腐を抱えた自分の姿がやけに可笑しい。

「きれいに片付いているわ。もっと散らかってるかと思った」
「麻美ちゃんが来るから、優奈と一緒に掃除したんだ。なっ、優奈」
彰さんが一人娘の頭を撫でると、優奈は得意げな顔で笑った。
五歳の子どもがいることに、戸惑いがないと言えば嘘になるが、幸い優奈は可愛くて私にとても懐いてくれた。

「麻美ちゃんの手料理が食べられるなんて楽しみだな」
「手料理っていっても鍋だもん。材料切ってぶっこむだけよ」
「ぶっこむ?」と優奈が小動物みたいに首を傾げた。
「やばい。言葉遣いも気をつけなきゃね」
「麻美ちゃん、〝やばい〟もアウトでしょ」
彰さんが笑って、優奈も笑った。

「彰さん、土鍋ある?」
「ああ」と彰さんが棚の奥から土鍋を出した。朱色の小さな花がちりばめられた蓋が可愛い。
「いい柄ね。おしゃれだわ」
「しばらく使ってないから洗わないと」
土鍋を受け取って流し台に乗せようとしたとき、優奈が突然「ママ」と言った。
「ん? どうした? 優奈」
「それはママのお鍋なの。ママが大切にしていたお鍋なの。パパとの思い出がたくさんあるお鍋なの」

彰さんと私は、思わず顔を見合わせた。彰さんの妻が亡くなったとき、優奈はまだ二歳だ。
母親のことも殆ど憶えていないのに、そんなことを知るはずがない。
「驚いたな。でも、優奈の言うとおりだ」
彰さんが懐かしそうに目を細めた。
「僕も妻も、早くに両親を亡くしていてね、家族で鍋が囲めるのが嬉しくてさ、結婚してすぐにこの土鍋を買ったんだ」
見たこともない寂し気な顔で、彰さんは土鍋を愛おしそうに見た。
仏壇で見た妻の写真と、目の前の優奈の顔が重なる。
優奈の中で、母親は生きている。そして亡き妻との思い出を懐かしそうに語る彰さんの中にも、彼女は消えずに生きている。

私は何だかいたたまれなくなり、乱暴に土鍋を置いた。
「今日は帰るわ」
鞄だけをつかんで外へ出た。北風が再び髪を乱すが、直す気力もない。

彰さんが慌てて後を追ってきた。
「麻美ちゃん、ごめん。無神経だったよ。今から新しい土鍋を買いに行こう」
優しく、そして強く体を包まれて、私はポロポロ涙を流した。
わかっていたはずだ。この家に来たら、亡き妻の残骸がいくつもいくつもあることなど、最初からわかっていた。
私は自分の心の狭さ認め、彰さんに促されて家に戻った。
玄関先で、優奈が大きな瞳を潤ませていた。

「おばちゃん、ごめんなさい。本当は鍋のことなんて知らないの。パパがおばちゃんの話ばかりするから、ちょっといじわるをしたの」
わずか五歳の子どもに、そんな嫉妬心があることに驚きながら、優奈がとても愛おしく感じた。
「優奈ちゃんもパパが好きなんだね。私もパパが大好きよ。同じ人が好きなんだから、きっと私たち、上手くやれるよ」
そう言って髪を撫でると、優奈は安心したように頷いた。
「でもね、優奈ちゃん、今度おばちゃんって言ったら怒るよ」
冗談めかして言うと、「だっておばちゃんだもん」と、優奈が笑って反撃した。
彰さんも「そうだよな」などと楽しそうに言いながら、慌てて逃げる真似をした。
私たちはきっと素敵な家族になれる。時間を重ねて、少しずつ本当の家族なろう。

葱や白菜を切って鍋に入れていく私を、優奈がじっと見ている。
「もうすぐできるからね」
「うん」と言った優奈の視線が外れた。
優奈の瞳は私を通り越し、白い壁を見つめている。
優奈のあどけない声が、白い壁に問いかける。
「これでいいんでしょう、ママ」

背中を冷たいものが走る。振り向いても誰もいない。
優奈にだけ見えるその人は、どんな顔で私を見ているのだろう。
「大切に使ってね。そのお鍋」
やけに大人びた声で優奈が言う。私は思わず「はい」と答えた。
風がふっと目の前を通り過ぎ、優奈が「バイバイ」と手を振った。


*****

公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「鍋」
今回、レベルが高かったらしいです。
このところ、連敗続きです。めげずに頑張ろう!


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一方通行 [公募]

世の中には、一方通行があふれている。

 ◇15歳の恋
陽菜は受験生だが、正直受験どころではない。
家庭教師の青山悠人に、かなり本気の恋をしている。
しかし大学生の悠人にとって、中学生など恋愛対象外。しかも教え子だ。
彼が気になるのは陽菜ではなく、陽菜の成績だ。
「このままだと志望校は危ないぞ」
成績不振の原因が、まさか自分にあるとは知らずに、悠人は真剣に悩む。
その憂いのある横顔に、陽菜の恋心はますます募る。
「先生、次の模試でA判定もらえたら、遊園地に連れて行って」
思い切って言ってみた。
「遊園地か。そういう息抜きも必要かもな。よし、行こう。ただしA判定が条件だぞ」
「やった!」
遊園地で、少しでも距離を縮めたいと願う、可愛い15歳の恋である。

 ◇24歳の恋
青山悠人は二浪して入った大学で、さらに一年留年をした。
だから24歳にして未だに大学生だ。
親の仕送りは年々減るが、もらえるだけ幸せだと思う。
家庭教師はなかなかの収入源だ。
神田陽菜という生徒は素直で真面目だが、最近成績が伸び悩んでいる。
もしかしたら自分の恋愛が、陽菜の集中力の妨げになっているのではないだろうか。
そんなふうに思い悩む悠人の恋の相手は、陽菜の母親である。
母親の麻紀は、37歳とは思えないほど若くてきれいだ。
夫は海外に単身赴任中で、そのせいかいろいろな相談事を持ちかけてくる。
いつもどこか淋しげで、儚くてか弱い。ずっと年上なのに、守ってあげたいと思う。
叶わぬ恋だとわかっている。募る想いを必死で隠す、切ない24歳の恋である。

 ◇37歳の恋
神田麻紀は、幸せな結婚生活を送っているように見える。
周りの誰もがそう思っている。
5歳年上の夫である宏明は、優しくて真面目で、誰もがうらやむ良き夫である。
しかし麻紀は、結婚してからもずっと、宏明に悲しい片思いをしている。
夫から愛情を感じたことがない。
宏明には、ずっと以前から変わらずに、想いを寄せている女性がいる。
それを知りながら結婚した。
いつか愛してくれることを信じながら、気づけば15年が過ぎている。
単身赴任中に、その女と連絡を取り合っているのではないか、娘の陽菜が成人したら、自分はあっさり捨てられるのではないか。
そんな不安で押しつぶされそうになる。
優しく接してくれる陽菜の家庭教師に、ついよろめきそうになるが、どんな男も宏明には勝てない。ため息の海に溺れそうな、37歳の恋である。

 ◇41歳の恋
「次の週末に帰国できそうだ」と、神田宏明は妻にメールを送った。
東南アジアの暮らしは刺激的だが、やはり日本が恋しい。
娘の陽菜は受験生だし、家のことも気にかかる。
しかしこうして異国にいると、どうしても非日常を考えてしまう。
宏明には、生涯を通じて添い遂げたい女性がいた。
しかし若かった宏明は、たった一度過ちを犯した。
別の女性と関係を持ち、妊娠させてしまった。それが、今の妻である。
娘は無条件に可愛く、妻は健気で優しい。
絵に描いたような幸せな家庭だが、時おり苦しくなる。
嘘で固めた人生のように思えるときがある。
愚かな自分のせいで傷つけた彼女は、今どうしているだろう。
真っ暗な窓ガラスには、あの頃の彼女の顔ばかりが浮かぶ。
逢いたいが、逢うのが怖い。
いっそ消えてしまいたいと思う反面、家族の待つ家に帰りたいと願う。
複雑な、41歳の恋である。

とある日曜日、陽菜は悠人と遊園地にいた。
模試で見事にA判定をもらい、約束通り息抜きをしている。
しかし遊園地に来たのはふたりではない。
悠人が母親の麻紀を誘い、麻紀が帰国中の宏明を誘い、4人で来ている。

爆発しそうな不満と、密かな恋心を隠しつつ、4人はそれなりに楽しく振る舞った。
最後に観覧車に乗った。4人いっしょのゴンドラは、妙に狭くて息苦しかった。
四人はそれぞれ、徐々に小さくなる景色を眺めて、たくさんの感情を胸に納めた。

「観覧車って、一方通行だね」
陽菜が小さくつぶやいた。
街のすべてを染めていく大きな夕陽が、それぞれの想いを飲み込んでいく。


***
公募ガイドTO-BE小説工房で落選だったものです。
課題は「標識」
入選作はどれも面白かったです。
今回も応募は200超え。次、頑張ります!

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人生最後の贈り物 [公募]

人間には寿命がある。それは仕方のないことだ。
あまり知られていないが、寿命が近づくと、どこからか封書が届く。
きれいな水色の封筒には、天使の羽根で書かれたような、あなたの名前が記されている。
封筒の中には、真綿のような白い表紙のカタログが入っている。
タイトルは『人生最後の贈り物』。

高木は、三年前に妻を亡くしてひとり暮らし。
息子夫婦に一緒に暮らそうと言われたけれど断った。
住み慣れた町を離れたくなかったし、嫁に気を使うのも嫌だった。
しかしここ数か月は体調が悪く、息子夫婦の世話になることも考えなければ、と思い始めていた。

高木宛に水色の封書が届いたのは、そんな秋の早朝だった。
起き抜けのテーブルに、不思議なほど自然に置かれていた。
高木は戸惑いつつも封を開けた。
「人生最後の贈り物? なんだ、これは?」

カタログを開くと、紫色のインクで書かれた丁寧なあいさつ文があった。

『慎ましく愛情深い人生を送ってきた貴方に、最後の贈り物です。カタログの中から気に入ったものをひとつ選んで、返信用のはがきに番号をご記入ください。最期まで幸せなときを過ごせるよう、心よりお祈りいたします』

そろそろお迎えが来るということか。高木は妙に納得しながら、頁をめくった。
一頁めに、豪華なディナーの写真があった。
こんな食事を、一度はしてみたいと思っていた。
飲んだこともない高価なワインとシャンパン。
厚いステーキに添えられたフォアグラ。旨そうだ。
しかしこのところ、いかんせん食欲がない。半分も食べられないだろう。
高木はため息をついて頁をめくった。

二頁めには、旅の写真があった。高木は、海外旅行など一度も行ったことがない。
妻が病弱だったから、旅行といっても近場の温泉がせいぜいだ。
ハワイでゴルフ、パリで美術館巡り、豪華客船で世界一周。どれもこれも魅力的だ。
しかし高木は、妻と出かけた温泉以上の想い出を作りたいとは思わなかった。
夕陽に染まる山間の宿と、妻の笑顔が高木のいちばんの想い出だ。

三頁めには、可愛い赤ん坊の写真があった。「初孫」と書かれている。
少し高木に似ている気がする。息子夫婦に子供はいない。
友人から孫の話を聞くたびに、羨ましいと思ったのは事実だ。
しかし、そういう人生を選んだのは息子夫婦だ。
老い先短い自分の願望で、彼らの人生を変えてはならない。

四頁めには、級友たちの写真があった。
どのようにして手に入れたのかわからないが、高木の学生時代の写真であった。
これにはさすがに心が動いた。
最後に級友たちと酒を酌み交わすことが出来たらどんなにいいだろう。
しかし高木は、三年前の妻の葬儀に遠方から駆けつけてくれた友人たちのことを想った。
みんな足が不自由だったり、持病があったりする中、無理をしてきてくれた。
何度も足を運ばせるのは忍びない。高木の方が出向くのは、体力的に自信がない。
これもだめかと頁をめくった。

五頁めには、写真はなかった。ただ、大きな読みやすい字でこう書かれていた。
『あたたかく、おだやかな死』
これだ、と高木は思った。もうこれ以外望むものはない。
高木はカタログを閉じて、同封されていた返信用のはがきに、「№5」と書き込んだ。

すると、それと同時にはがきが煙のように消えた。
カタログも封筒も、一緒に消えてしまった。
高木は、右手に握りしめたボールペンで頭を掻きながら「寝ぼけてたのか?」とひとり言を言った。

それから数か月後、高木は静かに息を引き取った。
息子夫婦と、妹夫婦や甥や姪たちに囲まれて、実にあたたかく、おだやかな最期だった。

「あなた、今までお疲れさまでした」
まるで定年退職をしたときのように、先だった妻が高木を迎えた。
「あなたも№5を選んだのね」
「そうだ。おまえも?」
「ええ、それ以外に望むものなどないわ」
「そうだな」
「あなたが№6を選ばなくてよかったわ」
№6があったことを、高木は知らなかった。五頁までしか見ていなかったからだ。
何だろう。気になったが後の祭り。
高木は妻の手を取って、あたたかくおだやかな風の中を歩き出した。

№6は、「絶世の美女との一日デート」であった。
女性の場合は美女が美男子になるのだが、不思議なことに殆どの人間は、五頁めで手を止めてしまうのだった。人生最後に願うことは、きっとそういうものなのだろう。

*****
公募ガイドTO-BE小説工房で落選だった作品です。
テーマは「贈り物」でした。
これは、オチが決まらなくて書き直しをくり返したものです。
そういうのはたぶんダメだろうなと思っていました。
夫婦が黄泉の国で出会って終わりの方がよかったかもしれません。
どうでしょう?

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やった!TO-BE小説工房最優秀 [公募]

公募ガイドの「TO-BE小説工房」で、最優秀をいただきました。
なんと2度目です!本当に嬉しい。
毎回出していた甲斐がありました。
阿刀田先生の選評も、とてもありがたかったです。
少し自信が持てました。

今回のテーマは、「眼鏡」でした。
最初はファンタジックな話を考えたのですが、結局とても現実的な話になりました。
深い想いがあって、自分ではすごく気に入った話でした。
公募ガイド9月号に掲載してますので、よかったら読んでみてください。

これからも、いいご報告ができるように頑張ります!

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