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ふたつの指輪 [公募]

仕事を終えてアパートに帰ると、薄汚れた郵便受けに白い封筒が入っていた。
間違えて迷い込んだのかと思うほど不似合な封書は、もう15年も会っていない姪の結婚式を知らせる招待状だった。

『叔父さんの居場所を探すのに手間取って、急な知らせになってしまいました。席は用意してあります。ぜひ出席して下さい。父も母も待っています 彩夏』

結婚式は週末だった。髪を二つに結んだあどけない彩夏の顔が浮かんだ。
あの子が結婚する年齢になったのか。
こうして居場所を探してまで招待状をくれたことは、心の底から嬉しい。
だけどいったいどんな顔をして会えばいいのだ。そんな資格は、俺にはない。

15年前、仕事が上手くいかなくてギャンブルに走った。
そのとき背負った借金は、親父が肩代わりしてくれたが、その代わりに家を追い出された。
行き場をなくて兄のところに転がり込み、少しの間世話になった。
兄夫婦は文句も言わず優しく受け入れてくれたのに、俺は彼らを裏切った。

ギャンブルがやめられなくて、義姉の指輪を勝手に持ち出し、質屋で金を借りた。
倍にして返すつもりだったと言ったところで、そこには何の信憑性もない。
兄は烈火のごとく怒り、義姉は信じられないと泣いた。
「他人にだけは迷惑をかけるな」と、封筒に入った金を押し付けるように渡され、家を追い出された。
何も知らない小さな彩夏に「おじちゃん、行っちゃうの?」と、きれいな目で見つめられ、何ともいたたまれない気持ちになったのを今も鮮明に憶えている。

ため息混じりに招待状を見つめていたら玄関のドアが開いて、「ただいま」と裕美が帰ってきた。
裕美は近所のスナックで知り合った女で、2年前から一緒に暮らしている。
「あれ、今日は仕事休みか?」
「うん、ちょっと病院に」
「大丈夫か? 風邪か?」
「それより何、その手紙。結婚式の招待状?」
「ああ、姪っ子のね。兄貴の娘だ」
裕美が封筒を眺めて、細い指で俺と同じ苗字をたどる。
「行くんでしょう?」
「いや、今更どの面さげて会えばいいんだよ。俺は一生許されないことをしたんだ」

最低だった昔のことは、包み隠さず話してきた。「私もそれほどきれいな人生じゃないから」と、裕美は小さく笑ってくれた。
「可愛かったんでしょう。彩夏ちゃん」
「ああ、不思議と俺に懐いてたな」
「子供はね、どうしようもないダメな大人が好きなものよ。行って祝福してあげなさいよ」
「いいよ。金もないし。祝い金も渡せないんじゃカッコ悪いだろ」
ギャンブルもやめたし借金はないけれど、小さな工場の安月給で余裕などない。
ふたりで働いてもギリギリの生活だ。

裕美が「ちょっと待ってて」とタンスの抽斗から指輪を取り出してきた。
「これを質屋に持って行って、お金を借りたらいいわ」
「いや、おまえこれは母親の形見だろう?」
「そうよ。大切なものよ。だから売るんじゃなくて預けるの。お給料日に返してくれればいいわ。今月は夜勤が多かったから、少し多くもらえるでしょ」
白い封筒の横に置かれた指輪は、俺を責めるように輝いている。
昔の弱い自分を思い出して苦しくなる。
「やっぱりいいよ。彩夏には祝電でも送るよ」
「ダメよ。行きなさい」
10歳も年下の裕美が、母親みたいな顔で俺を見た。

「あなたはもう、昔のあなたじゃないでしょう。質屋でお金を借りても、それをきちんと返せる人でしょう。この指輪を、期日までに私のところに戻してよ。それが出来る人だということを証明してよ。私と、お腹の子供に」
「子供?」
「さっき言ったでしょう。今日病院に行ったの。あなたは、父親になるのよ」
裕美の目から、涙がこぼれた。そうか。こんな俺が、父親になるのか。
「ほら、さっさと行きなさい」
裕美が指輪を、俺の手のひらに乗せた。
15年前、義姉の指輪に手を付けたときはまるで感じなかった重みが、ずっしりと伝わってきた。
「ありがとう。ちょっと借りるよ」
俺は、この重みを一生忘れないと誓って立ち上がった。
帰りに小さな花束でも買って帰ろうかと、柄にもなく思った。

*****

公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「質屋」
難しくて、最初から諦めムードでした。イマイチの出来でした。
今月は「夢」です。簡単なようで難しいテーマですね。

公募ガイド、7日に発売でしたが、届いたのは今日です(11日)
日曜祭日が入ると必ず遅れます。これはたぶん、配送する側の問題かもしれませんね。


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夏の終わり [公募]

浅葱色のカーディガンを羽織った妻の敏子が、ゆっくり庭先に降りてきた。
盆を過ぎて夜風が涼しくなったとはいえ、カーディガンはまだ早い。
体力がなくなり体温の調節が上手くできないのだろう。
「あなた、何をしているの?」
「花火だよ。週末に孫たちが来るからさ、花火をたくさん買ってきたんだ。今夜は予行演習だ」
「予行演習なんて大袈裟ね、十号玉でも上げるつもり?」
敏子がコロコロと笑った。この笑い声が聞けるのは、いったいあとどれくらいだろう。

敏子の病がわかったのは三年前だ。治療は難しく、あと一年の命と宣告された。
しかしこの夏で、三年が過ぎた。
ずいぶん痩せて体力は落ちたが、まだ歩けるし食事も摂れる。
「人生のロスタイム三年目ね」と、もともと陽気な敏子は笑って見せた。

ブロックで囲んだ中央に、円筒の花火を立てて火を点けると、シュッという音と共に、火花が空に向かって吹き上げた。
「まあ、すごい。炎が噴水みたいね。これはあの子たちも喜ぶわね」
小さな手持ち花火を想像していた敏子は、勢いよく上がる炎に手を叩いた。
ようやく音が出るような拍手だが、私は気をよくして、もう一本の花火に火を点けた。

週末、息子家族がやってきた。
三人の孫は、五年生の長男と三年生の次男、幼稚園の三男と、男の子ばかりの兄弟だ。
静かな家の中が一気に賑やかになる。
嫁は気のいい人で、長旅の疲れも見せず、台所に立っててきぱきと動いた。
「母さん、元気そうでよかったよ」
明るいうちからビールを酌み交わし、息子はなかなか帰省できないことを詫びた。
働き盛りだから仕方ない。

夜になって、私は花火を縁側に運んだ。
「さあ、おじいちゃんと花火をやろう」
孫たちに呼びかけたが、「やる!」と走ってきたのは幼稚園の三男だけだ。
長男と次男は、スマホのゲームを夢中でやっている。
「おれ、いいや。これクリアしたいから」
「おれも」
小学生にスマホは早いなどと野暮なことは言いたくないが、彼らは食事の時以外、殆どスマホを離さない。
「すみません、お義父さん。夏休みは塾と宿題でゲーム禁止にしていたものだから、夢中になっちゃって」
無理やり付き合わせても仕方ない。私は小さな孫だけ連れて庭に降りようとした。
そのとき敏子が、スマホに夢中の孫たちに優しく話しかけた。

「おじいちゃんの花火はね、すごいのよ」
「へえ、どうすごいの?」
目線を上げずに長男が言った。
「どうって……あのね、ポケモンが出るわ」
「ポケモン? なんのポケモン?」
次男が身を乗り出した。
ポケモンの種類など、敏子にわかるはずがない。口から出まかせだ。
それでも一生懸命答えようとしている敏子を見て、息子が助け船を出した。

「この庭、レアなポケモンがいそうだな」
勢いよく立ち上がり、スマホをつかんで庭に降りた。
「おれも探す」と次男が続き、諦めたように長男もスマホを置いて庭に出た。
一時期ブームになったポケモンを探すゲームだ。
レアなポケモンがいようがいまいが、孫たちは庭に集まった。

花火に火を点けると、さっきまでの態度は何だったのかと尋ねたくなるほど、孫たちははしゃいだ。
「すげー」と目を輝かせ、「次はこの花火」「おれにも火をつけさせて」と私に纏わりついた。
歓声と、炎が照らす赤い頬。
孫たちの姿を愛おしそうに見つめる敏子が、縁側にちょこんと座っていた。

派手な打ち上げ花火が終わり、最後に線香花火だけが残った。
孫たちは騒いだ後、ポケモンのことなどすっかり忘れ、嫁が切ったスイカを食べていた。
私は敏子と縁側に並んで座り、線香花火に火を点けた。
「線香花火はやっぱりいいわね」
敏子はしみじみ言いながら、ちりちりと風に消えそうな光を見ていた。
小さな玉がぽとりと落ちて消えた。あっけないものだ。
一瞬だが、線香花火と敏子の命が重なり、胸が苦しくなった。

「あなた、早く次の花火に火をつけて。こんなにたくさんあるんだから」
線香花火の束を持って、敏子が笑った。
涼しい風の中に虫の声がかすかに聞こえ、夏の終わりを告げていた。
「来年も、花火をやろうな」
私の問いかけに、敏子は小さく頷いた。

*********

公募ガイド「TO-BE小説工房」で、選外佳作だった作品です。
公募ガイドは8日に発売でしたが、届いたのは11日。
ちょっと遅くない? 
最優秀の作品に、レベルの高さを実感しました。
今月の課題は「虫」です。実はもう書き上がっています。(珍しい)


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傘の花 [公募]

春から夏にかけて、たくさんの花が咲くけれど、私にとって最も愛しいのは「傘の花」だ。
雨上がりの澄んだ光の中、六つの傘の花が軒先に咲く。それは我家の幸せの象徴だ。

夫の黒い傘、私の赤い傘、長女の夕菜はオレンジの傘、長男の海斗は青い傘、次男の草太は緑の傘、末っ子の桃香はピンクの傘。
それぞれのカラーが、右から大きい順に並んでいる。
通りすがりの人が目を細めるほど、それは微笑ましい風景だった。

**
雨が降り続いている。六つの傘が軒下に咲くことは、もうない。
家族で出かけたハイキングの帰り道、突然の集中豪雨に見舞われ、私たちが乗ったバスがスリップして崖から転落した。家族の中で、私だけが生き残ってしまった。

あの日から、ずっと雨が続いている。
色のないこの部屋に、雑音のような雨音が絶え間なく聞こえる。
気が狂いそうな寂しさに耐えながら、楽しかった日々を思い出そうとしても、雨は私の心にまで降り続き、やがて嵐のようにすべてを奪ってしまうのだ。

雨が続いているせいで、昼も夜も暗い。
日にちの感覚がわからないほど、私の心が壊れかけている。そんなときだった。
容赦なく窓ガラスを打ち付ける雨音に混ざって、子供たちの声が聞こえてきた。
「お母さん、算数のテストで百点とったよ」
しっかり者の夕菜の声。優しくて、お手伝いもよくしてくれた。
「お母さん、サッカーの大会で点入れたよ」
元気な海斗の声。負けず嫌いな頑張り屋さん。運動会ではいつも一等だった。
「お母さん、家族の絵を先生に褒められたよ」
おっとりしている草太の声。時々大人みたいことを言って驚かせてくれた。
「お母さん、桃ちゃんひとりで、お買い物に行けたよ」
甘えん坊の桃香の声。おしゃれが大好きで、幼稚園にはいつも違うリボンを付けて行った。

あなたたちはどこにいるの? この雨の中に閉じ込められているの? 
子供たちに逢えるなら、嵐の中でも飛び込んで行く。
本当にそう思っているのに、なぜか私の体は雨を恐れていて、外に飛び出すことができない。

リビングに置かれた茶色のソファーには、いつも誰かが座っていた。
夜になると、三人掛けのソファーを奪い合うように、夫と四人の子供たちが押し合いながら座っていた。
根負けして最初にソファーを下りるのは決まって草太で、子供と一緒になってはしゃぐ夫を、私が何度もたしなめたものだ。

今私は、一日中ソファーにいる。占領する私に、「ずるーい、お母さん」と誰かが言ってくれるまで、ずっとソファーに座っている。
ふと、小さな歌声が聞こえてきた。
雑音のような雨音がいつの間にか消えて、代わりに聞こえてきたのは小鳥のさえずりだ。
長い雨が、ようやく止んだ。

私はソファーから体を起こし、窓辺に近づいた。
どんよりと暗かった空に光がさしていて、その先に大きな虹が出ていた。
「まあ、きれい」
虹が出ているよと、子供たちに声をかけそうになって、いないのだと気づいた。
ため息混じりにうつむいて、窓を閉めようとした私の目に、七色の虹よりもずっと愛しい、五つの色が飛び込んできた。
軒先に五色の傘の花が咲いていた。
夫の黒い傘、夕菜のオレンジの傘、海斗の青い傘、草太の緑の傘、桃香のピンクの傘。
右から大きい順に並んでいる。
「五人でお出かけしたのね。お母さんも連れて行って欲しかったな」
手をのばしたら、五つの傘はふわりと宙に浮いて、空へと昇っていく。
「待って。私も連れて行って」
私は、重い体を思い切り伸ばして、黒い夫の傘の柄を、ようやく掴んだ。
連れて行って。あなたたちの世界に、私を連れて行って。

硬くて冷たいはずの傘の柄が、温かくて柔らかいものに変わり、子供たちの声が近くに聞こえた。
もうすぐ逢える。空の上に行ったら、みんなで虹を見下ろそうね。

**
目が覚めたら、夫が私の手を握っていた。
「よかった。戻ってきてくれたんだね」
夫の後ろで、子供たちが泣いていた。
身体の痛みと、子供たちの腕や足に巻かれた包帯で、私は現実を知った。

あのバスの事故で、私だけが意識不明の重体だった。
土砂降りの世界から、夫と子供たちが私を救ってくれたのだ。
「お母さん、虹が出てるよ」
桃香が小さな手で指さした。
夕菜がカーテンを開けてくれて、海斗があそこだよと教えてくれて、草太が上手に絵を描いてくれた。

明日、我家の軒先に、傘の花が咲く。


******
公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただきました。
課題は「かさ」です。
いろんな「かさ」がありますね。勉強になります。
今月の課題は「切符」です。まだ何も浮かびません。


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ぼたん園 [公募]

パートを終えた午後3時、家に帰りたくない気持ちは百パーセントに達する。
会話のない家は崩壊寸前、いや、もう崩壊しているかもしれない。
車を家と逆方向に走らせる。
民家がまばらな山道で、このまま行方不明になってやろうかと、幾度となく考える。
私がいなくなったら、あの家は間違いなく崩壊する。

古い木の看板が、目に飛び込んできた。黒い字で『ぼたん園』と書いてある。
そういえば、牡丹の季節だ。薄紅色の大きな牡丹が、実家の庭で毎年咲いていた。
花を見る余裕など、最近の私にはなかった。
気分転換に行ってみようと、車を看板の矢印の方へ走らせた。

広い日本庭園のようなものを想像していたが、コンクリートの小さな建物だった。
この建物の奥に、きっと牡丹園が広がっているのだろう。
中に入ると、薄暗い窓口から、顔半分が見えない老婆が「どうぞお入りください」と、しゃがれた声で言った。
個人の家の庭を、この時期だけ開放しているのだろうか。
私は、遠慮なく扉を開けて中へ進んだ。

色鮮やかな牡丹園を想像していた私は、その部屋に面食らった。
中に展示してあるのは、どこにでもある洋服のボタンだった。
確かに『ぼたん園』とひらがなで書いてはあったが、駄洒落? おやじギャグ? 
あまりのお粗末ぶりに笑うしかなかった。
さっさと進んで出ようと思ったとき、受付にいた老婆がいつのまにか、私の後ろにピタリと寄り添っていた。
「これが、あんたのボタンだよ」
老婆はそう言って、クリーム色の小さなボタンを指さした。
「あんたが、掛け違えたボタンだよ」
掛け違えたボタン? 私は、その小さなボタンを手に取った。
すると目の前が急に明るくなり、賑やかな子供の声が聞こえてきた。

「ねえ、ママ、晩ごはんなに?」
私のスカートにまとわりつくのは、娘の実花だ。
今は13歳で、大人を小馬鹿にしたようなことしか言わない実花が、まだあどけない幼稚園児だ。
「ぼく、ハンバーグがいい」と、リビングに駆け込んできたのは、息子の聡だ。
引き籠って誰とも口をきかない十六歳の聡が、ランドセルを背負った小学生で現れた。
「ママのハンバーグ大好き」
口を揃えるふたりの頭を撫でながら、私はおひさまみたいに笑っていた。

次のシーン。現れたのは、六年生の聡だ。
「ねえ、どうしても塾に行かなきゃだめ?」
「当たり前でしょう。私立中学を受験するのよ。学校の授業だけじゃ無理でしょう」
聡が好きだったサッカーを辞めさせて、塾に通わせた頃だ。
夫が帰ってきて、ネクタイをゆるめながら言う。
「中学は公立でいいんじゃないか?」
「あなた何もわかってないわ。公立はいろんな子がいるの。いろんな事件もあるわ」
この地域の中学が荒れているという噂を、いくらか大袈裟に言い、夫を黙らせた。
そこからだ。我が家が崩壊へ向かったのは。

聡は結局、中学受験に失敗した。
サッカーを辞めたことで友達が離れたこともあり、中学へは一日も通わなかった。
引き籠り、時々部屋で暴れることもある。
実花はその3年後に公立中学へ進んだが、噂ほど荒れた様子はなく、いたって平和な中学だ。実花はすっかり兄を馬鹿にするようになり、夫のことも、私のことも下に見ている。
何よりいつも重い空気が漂う家を、心底嫌っている。

あのときだ。私がボタンを掛け違えたのは、聡の中学受験を決めたときだ。
聡のためだと言いながら、果たして本当に聡のためだったのか。
ママ友たちとの会話がよみがえる。
「聡君、有名私立に行くんですって?」
「聡君、成績がいいからね。羨ましいわ」
「そんなことないわ。勉強嫌いで困ってるのよ。でもほら、子供の将来を考えたらね」
ママ友たちの善望のまなざしが、上辺だけのものだと知るのは、聡が受験に失敗した後だ。今では誰ひとり、付き合いはない。

現実に戻った。薄暗い部屋で、私は黄ばんだボタンを握りしめている。
先ほどの老婆が、私の肩に優しく手を乗せた。
「だいじょうぶ。まだ、だいじょうぶだ」
「大丈夫?」
「あんただって、反抗期のときは相当だった」
振り向いて見ると、老婆は私の母だった。
親孝行のひとつも出来ぬまま、逝ってしまった母だった。
「まだ、間に合う?」
「間に合うさ」
 涙を拭いて顔を上げると、もう母はいなかった。ぼたん園もすっかり消えていた。
手のひらに残ったボタンを握りしめ、私は歩き出した。
今夜はとびきりおいしいハンバーグを作ろう。
聡のために、実花のために、夫のために。時間はかかっても、きっと間に合う。
ひとつづつ、ボタンをかけなおそう。

****

公募ガイド『TO-BE小説工房』で、佳作をいただきました。
課題は「ボタン」です。
今回は次点だったので、阿刀田先生の選評もちょっとだけいただきました。
ところで今月の課題は「質屋」
何を書いたらいいのかさっぱりわかりません。まあ、ぼちぼち…。


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記憶研究所 [公募]

「大丈夫、眠っている間に終わります」
初老の医者が祥子の顔を覗き込んだ。
医者の顔に並んだホクロを、祥子は薄れていく意識の中でぼんやり見た。

「人間は間違いを犯します。しかしそこで躓いて、たった一度の人生を棒に振るのはよくありません。いいですか」
初老の医者は、紙に鉛筆で丸を書き、すぐに消しゴムできれいに消した。
「間違った文字を消しゴムで消すようなものだと思ってください。祥子さんの人生の悲しい記憶を、すっかり消してしまうのです」
祥子の母は、祈る想いですがりついた。記憶を操作する研究は、まだ開発途中で合法ではない。
しかし祥子は悲しみの淵に沈み、自殺さえしかねない。
祥子を苦しめる記憶を消して、以前のように楽しく暮らせるだろう。

施術は無事終わり、祥子は眠っている。
「成功しました。ただ、何かのきっかけで思い出してしまうことがないとは言えません。身の回りの物を出来るだけ処分して、新しい環境で暮らすことをお勧めします」
医者はそう言うと、眠っている祥子を一般病棟に移す手続きをした。
「記憶研究所」に来たことも、祥子の記憶から消えているからだ。

目覚めた祥子は、以前のようなあどけない十七歳の少女に戻った。
「どうして私病院にいるの?」
「ただの検査入院よ。ほら、貧血で倒れたでしょう。もう大丈夫よ」
母親は何事もなかったように振る舞い、祥子が入院している短期間で新居を決め、高校の退学届を出し、新しい生活の準備をした。

母親は祥子を連れて、遠く離れた田舎町で暮らすことにした。
元々不登校気味だった祥子は、高校に未練もなく、すぐにこの暮らしを受け入れた。
母親はスーパーで働き、祥子は近くの農園でアルバイトを始めた。
土いじりに向いているようで、学校に行っているときよりもずっと生き生きしている。

祥子は、農園で知り合った青年と親しくなった。今どき珍しい素朴な青年だ。
「祥子は、お母さんと二人暮らしなのか?」
「うん。生まれたときから二人なの。父親は、顔も知らないわ」
「そうか。だからアルバイトで家計を助けているのか。えらいな、祥子は」
青年は大きな手で祥子の頭を撫でた。その仕草が好きで、祥子は頬を染めた。

「土曜日に、星祭りに行かないか」
トマトの収穫をしながら、青年が言った。
夏休みに近所の小学生を集めて、星を見るイベントだ。
過保護すぎるほど祥子の外出を規制する母親だが、最近明るくなった祥子を見て夜の外出を許可した。
信用できる青年だし、祥子のよいパートナーになりそうだ。
この町で平穏に暮らすために彼は必要だと思った。

星祭りの夜、小学生に交じって、祥子は青年と星を見た。
都会ではありえない星空だ。今にも降ってきそうなほど近い。
宇宙に手が届きそうな感覚に、祥子は息をのんだ。
「すてき。こんな星空初めて見た」
「すごいだろう。ほら、あれが北斗七星だ」
七つの星を、青年の指が辿る。
それを目で追いながら、祥子はふと、頭の中で何かが弾けるような気がした。
何かが祥子の記憶の蓋をこじ開けようとしている。
なんだろう。難しい数式を思い出すように、祥子の脳が急激に動き出した。
星座の説明をする青年の声は、もはやまるで聞こえない。
もやもやしたまま、星祭りが終わった。

会場の出口で、スタッフが参加賞を配っていた。
星型の消しゴムだ。それを受け取り、祥子は小さくつぶやいた。「消しゴム……」
不思議な感覚と共に、記憶がじわじわと染み出してくる。『初老の医者』『記憶研究所』。
祥子はあんなに好きだった青年の手を振りほどき、走り出した。
「お父さん」と叫ぶ声が、震えていた。

祥子には父親がいた。酒を飲むと人が変わったように暴力をふるう父親だった。
月も星もない真夜中、祥子は母親と一緒に、マンションのベランダから父親を突き落とした。
泥酔して母親を殴った後だった。

祥子の記憶がすべて戻ってしまったことを知った母親は、ひどく動揺した。
「祥子、落ち着いて。もう済んだことよ。警察も事故で処理したじゃないの」
「私は憶えてる。お父さんを押したときの手の感触も、全部憶えてる」 
この町で穏やかに暮らせると思ったのに、いったいなぜ記憶が戻ってしまったのだろう。力なく座りこむ母親の耳に、テレビニュースの音声が滑り込んだ。

『……無認可の治療を行ったとして、記憶研究所の医者が逮捕されました』

テレビ画面に映し出された初老の医者の顔には、星座のようなほくろが七つあった。

*******

公募ガイドTO-BE小説工房で、落選だったものです。
テーマは「消しゴム」でした。
まったく自信がなくて、アップするのもやめようかな~と思ったのですが、まあいいか。
ちょっとテーマとずれたかな?
みなさまの意見をお聞かせください。


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大切なもの [公募]

藤田は子供のころから、ポケットに手を入れる癖があった。
しかもその中で指を動かすものだから、すぐに穴があいてしまう。
だから藤田は、大切なものをいくつも落とした。
母親からお使いを頼まれたときの小銭、友達にもらった光るビー玉、自転車の鍵、キャンディ、チケットなど、数えきれない。

藤田は30歳になった。
ポケットに手を入れる癖は相変わらずで、ポケットに穴をあけるのも日常茶飯事だが、学習能力がある彼は、大切なものは入れないように心がけている。
藤田の人生は順風満帆だ。大手の建設会社で働き、この春素敵な女性と結婚した。

藤田は今日、ひどく緊張している。
新しいショッピングモールの候補地を決める会議で、プレゼンをすることになっている。
必要な資料を抱えて会議室に向かう藤田を、先輩社員が呼び止めた。
「おい藤田、結婚指輪は外した方がいいぞ」
「えっ? なぜです?」
「開発部長の桐島さん、最近離婚してさ、結婚指輪をしている男に手厳しいって噂だ」
桐島部長は、この会社では珍しい女性の幹部だ。
陰で鉄の女と呼ばれるほど冷酷で厳しいと評判だ。しかも開発部長の意見は重要だ。
藤田は理不尽だと思ったが、左手の薬指から指輪を外し、ポケットに入れた。

重箱の隅をつつくような質問に、しどろもどろになりながらも、藤田は何とかプレゼンを終えた。
最後に桐島部長から「目の付け所はいいわ」と褒められ、ホッとしながら自分のデスクに戻り、指輪を嵌めようとポケットを探った。
「ない……」
ポケットには、ちょうど指輪がすり抜けるためにあいたような穴があった。

「指輪を失くしただって? 新婚なのにまずいぞ。奥さんに浮気を疑われるぞ」
そう言ったのは、さっき指輪を外すように言った先輩だ。
藤田は焦った。あの指輪は、ジュエリーデザイナーをしている妻の叔母が、特別に作ってくれたものだった。しかも追い打ちをかけるような妻からの電話だ。
「仕事中にごめんね。急なんだけど、今夜叔母が遊びに来ることになったの。ほら、指輪を作ってくれた叔母よ。だから今日、早く帰って来て欲しいんだけど大丈夫?」
「うん、わかった」と答えながら、藤田は頭が真っ白だった。指輪を探さなければ。

彼は昼休みに食事も摂らず、指輪を探した。
自分のフロアから会議室に続く廊下をくまなく見て回り、会議室も隅から隅まで見た。
見つからない。一体どこで落としたのだろう。
正直に話した方がいいだろうか。妻は優しく聡明な女性だ。
先輩が言うような、浮気を疑うような女性では断じてない……と思う。
藤田は自分を励ますように頷いて、自分のデスクに戻った。

「藤田さん、桐島部長がお呼びですよ」
女子社員に言われて、藤田は力なく立ち上がった。
平社員の藤田を直接呼ぶなんて、資料に不手際でもあったのだろうか。
泣きっ面に蜂とはこのことか。重い気持ちを抱えて、開発部に向かった。

「失礼します。藤田です」
桐島部長は、見ていた資料から顔を上げ、黒ぶちの眼鏡を外した。
「藤田君」
「はい、すみません」
「何を謝ってるの。まだ何も言ってないわ」
桐島部長は、机の引き出しから白いレースのハンカチを出し、藤田に差し出した。
「藤田君、あなた、こんな大切なものを落としちゃダメでしょう」
白いハンカチの中央に、プラチナの結婚指輪が輝いていた。間違いなく藤田のものだ。
桐島部長が指輪を拾い、その裏側に彫られた名前で、藤田の物だと気づいたのだ。
「ありがとうございます」
藤田は思わず泣きそうになりながら、指輪を嵌めた。
「大切にしなさいよ。指輪も、家族も」
鉄の女と呼ばれるその人は、真綿のような柔らかい表情をしていた。

「ねえ藤田君、ポケットに手を入れるのは、やめた方がいいと思うわ。何度か見かけたことがあるけど、あまり行儀がよくないわね」
「すみません。子供のころからの癖でして」
「これからは、その手をポケットに入れる代わりに、奥さんの手をしっかり握りなさい。絶対に離しちゃだめよ」
桐島部長はそれだけ言うと、眼鏡をかけていつもの厳しい顔に戻った。
藤田は深々と頭を下げて部長室を後にした。安心感からか急に腹が減ってきた。
「今日は早く帰ろう」とつぶやき、ポケットに手を入れそうになったとき、妻の顔が浮かんだ。
藤田はその手を戻し、指輪を見つめて歩き出した。

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公募ガイド「TO-BE小説工房」で佳作をいただきました。
テーマは「落とし物」でした。


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桜が見える部屋 [公募]

南側の窓を開けると、桜の花びらがふわりと舞い込んできました。
川向こうの桜並木から、はるばる風に乗ってやってきたのでしょう。
小さな花びらは、しばらく空中で遊びながら、あなたの写真の上にちょこんと舞い降りました。
桜が好きだったあなたが、写真の中で笑っています。

一緒に暮らすことになったとき、あなたはいつになくはしゃいだ声で言いました。
「いい部屋を見つけたよ。窓から素晴らしい桜並木が見えるんだ」
年に一度の桜より、駅に近い方がいいと正直思いましたが、あなたがあまりに嬉しそうなのでこの部屋に決めました。
桜が見えるこの部屋で、あなたと生きると決めました。

あなたは居酒屋で働き、私は図書館で働いていました。
昼と夜、すれ違いの毎日でしたが、私が出かけるとき、あなたは必ず布団の中から顔を出して「いってらっしゃい」と言ってくれました。
伝えたいことを手紙に書いておくと、疲れて明け方に帰ってきても必ず返事をくれました。
『子供たちに読み聞かせをすることになりました。上手くできるか心配です』と書けば、『君の優しい声を聞けば、子供たちはきっと、もっと読んでとせがむでしょう。僕も子供に混ざって聞きたいくらいだ』と書いてくれました。
本当に優しい人でした。

互いに仕事が休みの日は、一緒にお散歩をしました。
河原に座って、ただ風に吹かれるだけで幸せでした。
言葉がなくても気持ちが通じる人に出会ったのは初めてでした。
春にはこの部屋で、桜を見ました。
「やっぱりこの部屋にしてよかったね。家の中で花見ができるなんて贅沢だろう」
桜を見るたびに、あなたは得意げに言いました。
私は少しうんざりして「はいはい」と笑うのでした。
私たちは、この先何年も何年も、一緒に桜を見ると信じていたのです。

この部屋で見る三度目の桜が満開になった夜、ひとりの女性が訪ねてきました。
彼女は目に涙をためて、あなたの名前を呼びました。
「どれだけ探したと思っているの」と泣きながらあなたにすがりました。
「マキもパパを待っているわ」と、彼女が子供の名前を出すと、あなたの表情が少し揺れました。

五年前に家族を捨てて失踪したのだと、あなたは話してくれました。
仕事が上手くいかず、心のバランスを崩したのだと。
住処を転々として、小さな町の居酒屋に落ち着き、そこで私と出会ったのです。
やっと居場所を見つけたのだと、あなたは言ってくれました。
だけど事情を知ってしまった以上、もうあなたと暮らすことは出来ません。
私はあなたを追い出しました。
罵って、泣きわめいて、あなたを切り捨てました。
あなたを「パパ」と呼ぶ子供には、どうしたってかなわないと思ったからです。

あなたがいなくなったこの部屋で、私は何度桜を見たでしょう。
「今年も咲いたわ」と、あなたの写真に何度話しかけたでしょう。
虚しいだけだと知りながら、私はあなたの抜け殻と暮らし続けているのです。

あなたの写真に貼り付いた桜の花びらを指でつまんで、風に乗せてあげました。
やはり川向こうから来た花びらたちと一緒になって、気持ちよさそうに空を漂っています。
私はあなたの写真を持って外へ出ました。
あなたの抜け殻を捨て、歩き出そうと決めました。
思い出にすがって生きるのはやめて、桜の木の下に写真を埋めることにしました。

桜並木を歩いていると、肩や髪に花びらが舞い降りてきます。
「満開の桜も好きだけど、散り際の桜もいいね」
捨てようと思っているのに、写真のあなたが話しかけてきます。
振り切るように一本の桜の木を選び、その下にしゃがみこみました。
あなたの笑顔を、ここに埋めます。
それであなたへの想いが消えるわけではないけれど、気持ちにけじめをつけたいのです。

硬い土を掘り起こそうとしたときです。
風に乗ってあなたの声が聞こえました。懐かしいその声は、私の名前を呼んでいます。
顔を上げると、ひとつ先の桜の下に、あなたが立っています。
ついに幻を見てしまったと、不自然な瞬きをくり返す私を見て、あなたは照れたように頭を掻きました。
「妻に追い出されてしまったよ」
不器用に笑いながら、少しずつ私の方に近づいてきます。
「娘がこの春社会人になってね、もう僕は、あの家に必要ないんだってさ」
桜の花びらが、雪のように絶え間なく降っています。
その光景はまるで、夢と現実の境目のようで、私は思わずつぶやきました。
「これは夢なの?」

懐かしい腕が、私を抱きしめました。
「またふたりで、桜を見よう」
何もかもが薄紅色に染まっていく景色の中で、私は小さく頷きました。

******

公募ガイド「TO-BE小説工房」で落選だったものです。
テーマは桜でした。
書きやすいテーマだっただけに、難しかったですね。
後から読み直して、この作品はハッピーエンドじゃない方がよかったかも と思いました。
どうでしょうか?


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新人さん [公募]

朝は誰よりも早く出社して、社員たちが気持ちよく働けるように掃除をする。
入社してからずっとそうしてきた。
今朝も、当然一番乗りだと思ったら、社長が鼻歌を歌いながら机を拭いていた。
「おはようございます。社長、早いですね」
「春日さん、おはよう。ほら、今日から新人さんが来るでしょ。だからね、彼女が気持ちよく働けるように、机をきれいにしてたんだ」

社長がだらしなく鼻の下をのばしながら言った。
社長をここまで張り切らせた新入社員の彼女は、面接で一度微笑んだだけで採用が決まった。
美人で愛らしく、そして若かった。

先代の社長に見初められ、私がこの小さな食品会社に入社してから30年が過ぎた。
先代の社長は、5年前に奥様を亡くしてから急に気力を失い、息子に社長の座を譲った。
息子である今の社長の代になってから、会社の雰囲気はがらりと変わった。
新しい機械を次々に導入して、システムを変え、古くからいる年配社員をリストラした。
すっかり若返った会社で、私だけが浮いていた。

社長が、私を疎ましく思っているのは知っている。
私は新しい機械やシステムを必死で勉強して、何とかこなしているからクビにできない。
そこで社長は、若い事務員を雇い、私が居づらくなって辞めるように仕向けるつもりだ。
この狭い事務所に、二人の事務員はいらない。

いつもは就業時間ぎりぎりに来る従業員たちが、10分以上早く出社した。
「あれ、社長、新人さん、まだですか?」
「うん。道に迷っているのかな。どう思う? 春日さん」
「一度面接に来ているのに迷うはずがありません。よほどのバカでなければ」
「電車の遅延かな。遅延の情報入ってない? 春日さん」
「すべて平常運転です」
社長を始めとする男性社員が、首を長くして待っていても、彼女は一向に現れない。
とうとう就業時間を過ぎてしまった。
「社長、そろそろ朝礼を」
「ちょっと待って。新人さんに電話してみる」
社長が履歴書を見ながら電話をかけたが、どうやら繋がらないようだ。
「社長、朝礼を」
「うーん、今日はいいや。僕はここで新人さんを待つから、各自職場について」

男性社員たちが、がっかりした様子で営業や倉庫に向かうと、事務所には社長と私だけになった。
ピカピカの机に座るはずの美しい新入社員は、30分を過ぎても来ない。
時計を見ながら溜息ばかりの社長に、私は言った。 
「ドタキャンじゃないですか?」
「ドタキャン?」
「平気でドタキャンするらしいですよ。あの人。女友達には、すこぶる評判悪いです。約束は破るし、男の前では態度が違うらしいですよ、あの人」
「どうしてそんなことを知ってるんだ」
「彼女の身辺をリサーチしたんですよ。だって、これから机を並べて仕事するのがどんな人か、知りたいじゃないですか」
「春日さん、どういうつもり? 何の権限があってそんなことを」

社長が蔑むような顔で言った。
「嫉妬? 若くて美人の新人さんに嫉妬してるのかな? 見苦しいぞ、春日さん」
「社長、その美人で若い彼女は、前の会社を半年足らずで辞めていますね。その辺の理由はきちんとお聞きになりましたか? この職種に関する知識は、どの程度あるのでしょう」
社長の顔色が変わった。
「それに、さっきから新人さんって呼んでいますけど、彼女に名前はないんですか。外見ばかりに気を取られて、内面をちゃんと見ていない証拠ですよ」
「俺に意見するなんて、あんた何様だ」
社長がついに、顔を真っ赤にして怒った。
「出過ぎたことを申しました。すみません」
「わかればいいんだ。二度と俺に意見するな」

「社長、ひとつご報告があります。私、先代の社長、つまりあなたのお父様から、正式に求婚されました。お受けするつもりです」
「え?」
「これからは会長夫人として、会社のお役に立ちたいと思っております。多少の意見はご容赦下さい」
いくつになっても父親に頭の上がらない社長は、明らかに動揺して、気持ちの整理がつかない様子で用もないのに倉庫へ向かった。

新入社員はとうとう来なかった。
来るはずがない。私が事前に連絡したのだから。
「この会社はひどいブラック会社で、男性社員のセクハラが原因で何人もの女子社員が辞めている。入社を取りやめた方がいい」と嘘八百を並べて、彼女の入社を阻止した。

だって、職場の花はひとりで充分でしょう。


********
公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
テーマは「新人」でした。
佳作など読みましたが、やはり新入社員の話が多かったですね。
「今年の新人は」などと毎年言われますが、「今の若者は」と、昔から言われ続けるのと同じで、誰もが通る道なのですね。
でも、ここ数年は明らかに「ちょっと違うな」と思うのは私だけでしょうか。
年取ったから?


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TO-BE小説工房、最優秀 [公募]

公募ガイド「TO-BE小説工房」で、最優秀賞をいただきました。
課題はカメラでした。
嬉しいことに、3度目の最優秀です。

上手く書けても書けなくても、とりあえず毎回出そうと決めています。
課題に沿って書くのは、すごく勉強になるし、このような賞をいただくと、
本当に励みになります。
これからも、よい報告ができるようにがんばります^^

作品は、公募ガイド3月号で読むことができます。
タイトルは「忘れ物」です。
よかったら、読んでみてください。

KIMG0041.JPG


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授かりました [公募]

半年間の海外赴任から帰った日、妻の沙織が神妙な顔で言った。
「子どもを授かりました。九週目に入ったところです。つまり、妊娠三ケ月です」
「えっ? いや、僕は半年前に海外赴任になって、その間一度も家に帰っていないじゃないか。いったい誰の子だ」
面食らって慌てふためく僕を尻目に、沙織は至って冷静だ。
「神様から授かった子どもよ」
「はあ?」

沙織には、幼少期からずっと信じている神様がいる。
南の島に昔から伝わる由緒ある神で、沙織の祖母がその島の出身だったから当然のように信じ、毎朝祈りを捧げている。
新婚だったにも関わらず海外赴任についてこなかったのも、神への祈りが疎かになることを恐れたからだ。

時差ボケもあって頭の整理がつかないまま、僕は同僚二人と酒を飲んだ。
「なんだ、そりゃ」
鈴木は腹を抱えて笑った。
「そりゃ、間違いなく奥さんが浮気してできた子だろう。聖母マリアじゃあるまいし、すげー言い訳だな」
「でもさ、とても嘘をついているように思えないんだ。後ろめたい気持ちが、まるで感じられないし、神様に祈るときみたいに穏やかな顔で腹を擦っているし」
ずっと黙って聞いていた山下が、腕組みをしながら「そういう話、聞いたことがある」と静かに言った。
「知り合いに、小さな島の出身者がいるんだけど、住民がすべて島を離れて、今は無人島になっているんだ。その島に祀られていた神様は、島の記憶を残すために、神を信じ続ける人に命を授けるそうだよ」
そういえば、沙織が信じる神が祀られた島も、今はもう無人島になっている。
「奥さんとよく話し合ってみろよ。神様のことも、ちゃんと理解した方がいいな」
山下は、いつも的確な答えをくれる。
その横で赤い顔をした鈴木が「ありえねえだろ」と、相変わらず笑っていた。

翌日、僕は沙織と向き合った。
沙織は、壊してはいけない宝物を預かったように、優しくお腹を撫でていた。
「つまりその子は、神様ということかな?」
「そうじゃないわ。神様が授けてくれた、私とあなたの子よ」
「将来は教祖様になるとか、そういうことじゃないの?」
「宗教団体じゃないのよ。私たちの神様は、私たちの心の中にいるの」
「僕は、その神の子と、どう接すればいい?」
「父親として普通に接するのよ。もしかしたら、あなたに似ていないかもしれない。だけど神様があなたと私を信じて授けてくださったのよ。ねえ、一緒に育てましょう」

完全に理解したわけではないけれど、僕は沙織を信じることにした。
沙織に男の影などまるでない。
かいがいしく家事をこなし、夕飯は僕の好きなおかずを並べてくれた。
休日はゆっくり散歩をして、胎教にいい音楽を聴いて過ごした。
お腹が大きくなると、不思議なことに父親としての自覚が芽生え、無事に生まれることだけを願った。

「奥さん、そろそろ臨月か」
そう言いながら、山下がビールを注いだ。
「いいのか? 他の男の子供かもしれないぜ」
鈴木は未だに疑っている。
「生まれたら見に来いよ」
僕の心は穏やかだ。沙織は今まで以上に熱心な祈りを捧げるようになった。
「子供と、あなたの分も祈っているのよ」
菩薩のように優しい顔だ。僕はお腹の子供に話しかける。「お父さんだよ」

しばらくして、沙織は女の子を産んだ。沙織にそっくりな可愛い子だ。
「島の記憶を持って生まれたのかな」
「島の記憶? なにそれ?」
「前に同僚の山下が言っていたんだ。今は誰も住んでいない島の記憶を残すために、神様が信者に命を授けるって話」
「そうか。そういうことなのね」
沙織が愛おしそうに赤ん坊の頬を撫でた。

***
数日後、ひとりの男が沙織の病室を訪ねた。
「あら、山下さん、仕事中じゃないの?」
「抜けてきたんだ。土日に来るわけにいかないだろう。それよりおめでとう。可愛い女の子だね。俺に似なくてよかった」
「ええ、ちょっとドキドキしてたわ」
「しかし君も嘘がうまいな」
「あなたこそ。山下さんのおかげで、あの人すっかり信じたわ」
「罰が当たるかな、俺たち」
「大丈夫よ。私、毎日拝んでいるもの」

*******

公募ガイド「TO-BE小説工房」の落選作です。
課題は「神」でした。難しいテーマです。
今月の課題は「桜」
きれいな話を書きたいけど、まだ手付かずです。
いいご報告が出来るように頑張ります^^


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